プライドが高すぎてつらい

人間、間違いは受け入れられないもので、いつだって自分こそが正しいと思い込んでいる。

これでよかったんだと、これで合ってるはずだと、常日頃からそう考えている。

「われわれのほとんどすべての問題はプライドの高さである」と言ったのはだれだったか。

最近はプライドについて考えている。

仕事をして外界の人たちと交流するたびに自身のプライドが高まっていくのを感じる。

それまでニートをしていたときはプライドの高さを自覚する機会があまりなかった。

要するに家族や一部の友だちとしか交流する機会がないので他者と比較する場面がない。

加えて、そうした家族や一部の友だちはニートである私をすでに受け入れて認めている節があるので自分の印象を取りつくろう必要もない。

一方で働き出すと自分のことを認めない人たちが出てくるし、せめてあいつよりは上に立ちたいという下世話な欲望も芽生えてくる。

つまり私はプライドがあるから生きにくいのだ。無駄なプライドがない人はニートになりようがない。本質的には他者のことを気にしていないからだ。

しかし私は違う。本質的には他者のことが気になっているし、どうしても比較してしまいたくなる。比較していると疲れる一方だ。だから家に引きこもってニートになってしばらく休もうと。

もちろんすべてのニートがそうではないが、私の場合はそうだと思う。なぜわざわざ他人なんかどうでもいいと主張しているのかと言えば、われこそが他人のことが気になっているからだ。

私のなかにはドロドロとした感情がある。そうじゃなかったら300人以上もの人にフォローなんかされない。もっとすごい人たちはたくさんいるのは前提として。

結局、有名人とか成功者とかそういう人たちは「どれだけ一般の感覚から離れているか」ということに尽きると思う。なぜなら有名人の対義語が一般人だからだ。私の異常度は300人程度ということだ。

もちろん「頭がいい」とか「立ち回りがうまい」とか「運がいい」というのもあるけど、いちばん大切なのは「変なやつ」ということだと思う。

私は変わっている自分が好きだと思っていた。でもその「変わっている」のレベルは大したことはなかったし、そもそも好きも何もそういうふうに自分を肯定しながら生きていくしかない。

だって本気の理想をいえば、なにも主張することがなく、なんの疑問も持たず、友だちと居酒屋で仕事の愚痴をこぼしながら、それでもなにかを変えようとはせず、ただただ見栄えのいい料理をインスタグラムにあげてるような人たちみたいになりたかったでしょうよ。

1Q84、1巻が読み終わりそうです。