神のわざがこの人に現れるため

2024.4.28

≪聖書箇所≫:ヨハネの福音書 9章1節~12節、13節以降抜粋【新改訳改訂第3版】


9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。

9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
9:8 近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9:9 ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
9:10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
9:12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません」と言った。

≪聖書箇所の概説≫ 

 
  本日は、先週の新約聖書通読箇所のヨハネの福音書9章「生まれつきの盲人」から学んでいきたいと思います。ヨハネの福音書9章の話には6種類の人々、①イエス様、②弟子たち、③生まれつきの盲人、④近所の人たち、⑤パリサイ人・ユダヤ人、⑥両親、が登場します。
  その中から、イエス様に会った後の盲人を中心に学んでいきたいと思います。

≪ポイント①≫ 弟子たちの質問 

 
9:2 b「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と弟子たちがイエス様に質問しました。「彼が見えないのはどうしてですか」ではなく、「だれが罪を犯したからですか」という質問でした。
当時のユダヤ人たちは、何かの災いがあると、本人の罪、あるいは両親や先祖が罪を犯したからだと考えていました。日本でも「因果応報」と言って、「人は良い行いをすれば良い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」という考え方があります。
弟子たちの質問は、生まれつきの盲人の一番聞きたかった質問であり、弟子たち以上にイエス様のお答えに耳を傾けたのではないでしょうか?

≪ポイント②≫ イエス様に会う前の生まれつきの盲人

 
9:8 b「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」とあるように、盲人は物乞いをしていました。生まれつきの盲人ですから、学んで知識を付けることもできず、体を動かして働くこともできず、道端に座って行き交う人々の憐れみにすがって生きていました。
そして、人々が「この人は罪人にちがいない!」あるいは「この人の先祖が罪を犯したのにちがいない!」と言う言葉を何度も何度も耳にし、自分ではどうしようもない現状に心打ちひしがれ、物乞いをしてつらい毎日を送っていたのではないでしょうか?

≪ポイント③≫ イエス様のお答え

 
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」
 
イエス様のお答えは、病や障害をその病や障害のある人の罪と結び付けることを否定しました。また、その人の先祖や両親の罪と結び付けることも否定しました。
盲人はイエス様のお答えに戸惑いを覚えたのではないでしょうか。今まで誰も言ったことのないお答え「神のわざがこの人に現れるためです。」盲人がこのお答えを理解できなかっただけでなく、弟子たちや周りにいるすべての人が理解できなかったと思います。
  

≪ポイント④≫ イエス様に会った後の盲人

 
9:12 また彼らは彼に行った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません」と言った。
 
盲人は、道行く人々の話でイエス様のうわさを聞いたことがあったかもしれませんが、イエス様のことをほとんど知りませんでした。
 
9:15 b あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです
 
パリサイ人に質問された盲人は、イエス様による癒しの体験を、証ししました。
 
9:17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」
 
パリサイ人たちの再三の呼び出しと質問に対して、盲人は、臆することなくイエス様が預言者であると告白しました。
 
9:24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
 
イエス様を罪人呼ばわりするパリサイ人たちの質問に対して、盲人は、臆することなくイエス様によって癒されたことを証言しました。
 
9:31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
9:32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
9:33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
 
神様がモーセに語ったことは知っているが、イエス様が何者かは知らないというパリサイ人たちに対して、神は罪人の言うことはお聞きならず、あの方は神から出ておられるから盲人の目を開けることができたのだと宣言しました。
 
12節「私は知りません」と言った盲人は、15節「私はいま見えるのです」と証し、17節「あの方は預言者です」と告白し、25節「私は盲目であったのに、今は見える」と証言し、33節「あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです」と宣言しています。
イエス様を罪人に定めたいパリサイ人たちが盲人を呼び出すたびに、盲人の信仰が成長しているのが分かりますね。

 盲人がパリサイ人の前に呼び出されるということは、今の私たちが、警察署や裁判所に呼び出されて尋問を受けるより大変なことで、パリサイ人の前で証言することは、並大抵のことではありませんでした。ですから、盲人の両親はユダヤ人たちを恐れて、この問題に関わらないようにしていることが、18節から23節に書かれてあります。盲人は何度も何度もパリサイ
人の前に呼び出されるという試練に会い、そのたびに信仰を成長させていったことがうかがえます。
 
私たちクリスチャンの信仰の成長を二つのグループに分けて、イメージして考えてみたいと思います。横軸を信仰の年数、縦軸を信仰の成長度合といたします。一つ目のグループは、大きな試練もなく順調に信仰生活を送っている人。グラフに表すと緩やかな上り坂になると思います。順調な信仰生活は感謝なことですが、信仰の成長度合は少ないと思います。
二つ目のグループは、たびたび問題や試練に会い、戦いながら信仰生活を送っている人。グラフに表すと階段を上っているような信仰生活になると思います。つらい日々を送ることがあると思いますが、信仰の成長度合は大きいと思います。(実際の信仰生活は二つに分かれるわけではなく、どちらも混合して、どちらかが多い信仰生活になると思いますが。)
私たちが問題や試練に会う時は、落ち込む時ではなく、盲人のように信仰を成長させる時としたいですね!アーメン!
 
9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
 
信仰を成長させていった盲人は、とうとうイエス様を信じ、イエス様を礼拝する者に変えられました。肉の目が癒されて見えるようになっただけでなく、心の目(霊の目)が開かれて、イエス様が神様であることが分かったのです!
 

≪ポイント⑤≫ 神のわざは誰に現されたのか 

皆さんの中で、神様による癒しを体験したことの無い方はおられますか?あるいは、神様による癒しを体験したことのある方はおられますか?また、イエス様の奇跡の業を見たことの無い方はおられますか?あるいは、イエス様の奇跡の業を見たことのある方はおられますか?
私たちクリスチャンは全員、神様による癒しを体験し、神様の奇跡の業を体験しているのです!生まれつきの盲人が肉の目が癒されただけでなく、心の目が開かれて、真の神様を礼拝する者へと変えられたように、霊の目が見えなかった私たちが、イエス様を信じることができたということは、霊の目が癒され、霊の目が見えるようになったということです!ハレルヤ!
 
9章39節から41節をリビングバイブルで見てみましょう。
 
9:39 すると、イエスは言われました。 「わたしがこの世に来たのは、心の目の見えない人を見えるようにするため、また、見えると思い込んでいる人に、実は盲目だということを、わからせるためなのですよ。」
9:40 ちょうどその場に居合わせたパリサイ人たちが、けげんそうに尋ねました。 「なんですか、じゃあ、私たちも盲目だと言うのか?」
9:41 「もしあなたがたが盲目だったら、罪に問われないですんだでしょう。 しかし、何もかもわかっているとあくまで言いはるので、あなたがたの罪はそのまま残るのです。」
 
本日のメッセージタイトルの「神のわざがこの人に現れるためです。」と言われて、神のわざが現されたのは、生まれつきの盲人だけでなく、私たちクリスチャン一人一人なのです!
ヨハネの福音書6章29節でも、イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」とあります。イエス様を信じることができることが神様のわざであり、私たちは神様の奇跡のわざを体験している者なのです!ハレルヤ!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?