キリストにある生き方


≪聖書箇所≫:コロサイ人への手紙 3章5節~17節【新改訳改訂第3版】

本日は本文中に聖書箇所をお読みすることにいたします。

≪聖書箇所の概説≫
  
今週の新約聖書通読箇所は、コロサイ人への手紙とテサロニケ人への手紙ですが、コロサイ人への手紙3章から学んでいきたいと思います。コロサイという町は、小アジア、現在のトルコにありました。ヨハネの黙示録に出てくる7つの教会(エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤ)はすべて小アジアにあり、コロサイはラオデキヤの近くにありました。また、パウロが伝道旅行をした地域のほとんどは、この小アジアとギリシャでした。新約聖書でパウロが書いた手紙は、コリントもエペソもピリピもテサロニケもパウロが伝道旅行した地域にありました。
コロサイ教会は小アジア地域にありましたが、パウロは一度も訪問したことはなく(2:1)パウロの直接的な伝道活動で出来た教会ではなく、コロサイ出身者のエパフラスが基礎を築きました(1:7)。当時コロサイの教会に、グノーシス的な異端が広がり始め(1:23、2:4,7-8)エパフラスはパウロに指導と助言を求め、パウロはこの手紙を書き送りました。

≪ポイント①≫ コロサイ人への手紙のアウトライン

コロサイ人への手紙は、1章でキリストによる救い・和解・成長が語られ、2章の前半で哲学的異端への注意が語られ、2章の後半で律法的異端への注意が語られました。そして、3章の前半でクリスチャン生活についての勧告が語られ、3章の後半でクリスチャン生活の具体的な実践が語られました。そして、4章で祈りと挨拶で結ばれています。
本日はパウロが3章の前半で語ったクリスチャン生活についての勧告の中の、7つの命令形から、「キリストにある生き方」について学んでいきたいと思います。

≪ポイント②≫ 否定的な3つの命令

パウロが3章の前半で語った、7つの命令形の始めの3つは「・・・していかなければならない」否定的な命令です。

◆コロサイ人への手紙 3章5節~11節
3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
3:6 このようなことのために、神の怒りが下るのです。
3:7 あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。
3:8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
3:11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

① 不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを「殺してしまいなさい。」(3:5)
   原理的には私たちは「キリストにある、新しく造られた者」であり、「聖霊によってきよめられた者、聖徒であります」が、現実的には「自分の中になお残る、肉=罪=自己中心の欲望=貪欲な古い性質」と対峙して、5節にある、像礼拝と言われた悪い行いを殺していかなければなりません。

② 怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを「捨ててしまい なさい。」(3:8)
  パウロの思いの中には、怒りから罵倒への発展があったと思われます。事の発端としては理由のある怒りが生じ、抑えがたい憤りとなり、やがて意地の悪い悪意に変わり、悪意は言葉となり、悪口になり、誹謗中傷を周辺に流し、恥ずべき言葉へと発展してしまいます。
 私たちは初めの小さな怒りであっても、それらを捨てていかなければなりません。

③「互いに偽りを言ってはいけません。」(3:9)
    パウロは「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着て、新生をいただいているのだから」互いに偽りを言ってはいけないと語りました。なぜ互いに偽りを言ってはいけないのでしょうか。私たちクリスチャンにとって、偽りの無いイエス様がすべてであり、このイエス様が
互いの中におられるからです。私たちはイエス様のように、偽りの無い聖徒に変えられていかなければなりません。

≪ポイント③≫ 積極的な4つの命令

パウロが3章の前半で語った、7つの命令形の後ろの4つは「・・・になるべき」肯定的で積極的な命令です。

◆コロサイ人への手紙 3章12節~17節
3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。

④ 深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を「身に着けなさい。」(3:12)
  私たちが5つの徳目(道徳の細目)の服を着ることができる根拠をパウロは3つあげています。①神様に選ばれた者であること。②聖なる者とされたこと。③愛されている者とされたこと。私たちには服を着ることができる3つの根拠があるのですから、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着ける者になっていきましょう!

⑤ キリストの平和が「支配するようにしなさい。」(3:15)
   15節の文章は、直訳的には「キリストの平和が、あなたがたの心を審判するようにさせよ」であり、言い換えれば、『あなたがたの心を「キリストの平和」を基準にしていつでも、イエス様にチェックしていただきなさい。』となります。
「キリストの平和」は、十字架と復活による「贖罪→和解→平和→神様との平和・人との平和」であり、私たちはしっかりと「キリストの平和」を基準にした生活をする者になっていきましょう!

⑥「感謝の心を持つ人になりなさい。」(3:15)
   「be thankful」聖書中、もっとも短い2文字の文書と言われているところですが、その内容は、満ち溢れんばかりに豊かです。口語訳や新共同訳では「いつも感謝していなさい」とあります。「いなさい」は現在命令形であり、「いつでも感謝にあふれていることを継続して習慣的にせよ!」という意味合いがあります。ですから私たちは習慣的に感謝する者になっていきましょう!

⑦ キリストのことばを「豊かに住まわせなさい。」(3:16)
パウロはキリストのことばを豊かに住まわせ(宿らせ)た結果として、5つの活動に進むように勧めているように思います。①互いに教え合うこと、②互いに戒め合うこと、③神様に向かって賛美すること、④ことばと行いをイエス様のお名前によって行うこと、⑤父なる神様に感謝すること。一つ一つの説明は省きますが、私たちはイエス様のことばを内に宿らせるだけでなく、クリスチャンとして証しとなる行動を取れる者になっていきましょう!

≪ポイント④≫ 3つの愛の実行

クリスチャン生活についての勧告から「キリストにある生き方」について7つの命令文を学んできましたが、「これをしなければいけない」、「あれをしてはいけない」と、律法的になると、イエス様が嫌っていたパリサイ人になってしまいます。パリサイ人の教えには、「しなければならない」項目が248個あり、「してはいけない」項目が365個あるそうです。
戒めを守ることはとても大切ですが、律法的になって戒めに縛られるのではなく、神様が私たちを愛してくださったように、神を愛し、人を愛し、自分を愛することがさらに大切です。

マタイの福音書22章36節~40節
22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

イエス様は律法的なパリサイ人に敵対し、神様の愛を語りました。神様を愛し、隣人を愛することは律法全体を守ることにつながるのです。ですから、神様を愛し、人を愛し、自分を愛する3つの愛を実行する者になれるように、信仰生活を歩んでいきましょう!

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