タラントのたとえ話とミナのたとえ話

2024年3月17日

≪聖書箇所≫:ルカの福音書 19章11節~28節【新改訳改訂第3版】

 19:11 人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからである。
19:12 それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。
19:13 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が私が帰るまで、これで商売しなさい。』
19:14 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った。
19:15 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。
19:16 さて、最初の者が現れて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』
19:17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
19:18 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』
19:19 主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』
19:20 もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。
19:21 あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』
19:22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。
19:23 だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』
19:24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』
19:25 すると彼らは、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています』と言った。
19:26 彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。
19:27 ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」
19:28 これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。 

 ≪聖書箇所の概説≫ 

 イエス様は神様のことや神の国のことを話すときに、たとえ話をよく話されました。ヨハネの福音書には、ほとんどたとえ話が登場しませんが、他の福音書には34箇所(マタイ:16・マルコ:5・ルカ:22)のたとえ話が登場します。イエス様がたとえ話を話されたのは、弟子たちや会衆が話をよく理解するためでありました。たとえ話を辞書で引きますと「ある事柄を理解できるようにするために、他の事柄に置き換えて説明するものである。」とあります。当時のユダヤ人たちはイエス様が話されるたとえ話を聞くと「なるほど!」と理解できるものでした。
 しかし、時代も違い、国も違う日本人である私たちが、イエス様のたとえ話の意味を正しく理解することが難しい話もあります。本日は似たようなたとえ話ですが、異なる意味のタラントのたとえ話とミナのたとえ話を比べて学んでいきたいと思います。

  ≪ポイント①≫ タラントのたとえ話

   今日お読みした箇所と大変似ているたとえ話が、マタイの福音書25章のタラントのたとえ話です。
 
 ある人が、自分の財産をしもべたちに預け旅に出ました。よほどたってから帰って来た主人はしもべたちと清算をしました。五タラント預かったしもべは商売をしてさらに五タラント儲け、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。マタイ25:21」と、ほめられました。二タラント預かったしもべも商売をしてさらに二タラント儲け、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。25:23」と、ほめられました。一タラント預かったしもべは主人を信頼せず商売もせず、土の中に隠していたので、「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。25:26-30」と言われてしまいました。
 
 マタイの福音書25章には、①「五人の賢い娘と五人の愚かな娘のたとえ話」と、②「タラントのたとえ話」と、③「羊とヤギとを左右に分ける最後の審判」の三つの話が語られています。25章は「天の御国」のたとえ話であり、三つで一つのセットになっていると考えられます。少し乱暴ですが、それぞれの話を一言でいえば、
①五人の賢い娘と五人の愚かな娘のたとえ話は、「目を覚まして、いつ主人が帰って来ても良いように、準備していなさい!」。
②タラントのたとえ話は、「神様から与えられたタラントを有効に用いて、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ!(第一の戒め)」。
③羊とヤギとを左右に分ける最後の審判は、「イエス様を愛するように、自分の隣人を愛せよ!(第二の戒め)」と言えます。

 ですから、マタイの福音書25章のタラントのたとえ話は、神の国で生きる私たちクリスチャンの信仰生活に向けて語られているたとえ話と言えます。そして、マタイの福音書25章全体を通して語られていることは、神様がいつ帰って来ても良いように準備し、与えられたタラントを用いて神様を愛し、神様に仕え、隣人を愛して信仰生活を送るように語られているのです!
 

 ≪ポイント②≫ ミナのたとえ話

  では、タラントのたとえ話と似ている今日のルカの福音書ミナのたとえ話は誰に語られた、たとえ話でしょうか?このたとえ話は二つのグループに語られています。
 一つ目のグループは、弟子たちや民衆に対してです。
 
19:11 人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからである。
19:28 これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。
 
 弟子たちや民衆は、主がエルサレムに入られたら、いよいよローマ帝国からの独立の時が来て、神の国がすぐにでも現れると期待していました。弟子たちと民衆が抱く、間違った「神の国」概念と期待を教示するために語られたのが、このたとえ話の一つ目の目的です。
 
 二つ目のグループは、イエス様を十字架に架けようとするユダヤ人の反対派に対してです。

 ある身分の高い人が、王位を受けるため遠い国に行くとき、10人のしもべに十ミナを与えて、商売をするように言って旅立ちました。主人は帰って来たとき、どんな商売をしたかを知ろうとして、しもべたちを呼び出しました。最初のしもべは、預かった一ミナで商売をして十ミナ儲け、「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。19:17」と、ほめられました。二番目のしもべは、預かった一ミナで商売をして五ミナ儲け、「あなたも五つの町を治めなさい19:19」と、ほめられました。もう一人のしもべは、主人を信頼せず商売もせず、風呂敷に包んでしまっていたので、「悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。19:22-23」と言われてしまいました。この部分はタラントのたとえ話と似ていますが、導入部分と、最後の部分が大きく異なっています。
 
19:14 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った。
19:27 ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」
 
 王位を受けに行った身分の高い人を国民が憎んでいた?王になるのを望まなかった敵どもをみな殺してしまえ?なんとも物騒な、たとえ話だと思いませんか。
 本日お読みした箇所は、たとえ話の背景が分からないと理解しにくい所です。このたとえ話は、世界史に起こった有名な事件を下敷きにしてイエス様が語っております。
 
 イエス様がお生まれになってほどなくして、あの悪名高いヘロデ大王が死にました。(BC4)大王には三人の息子があり、その中の一人にアケラオ(マタイ2:22)という息子がいました。この息子にユダヤの国を治めさせるように、大王は遺言を残しました。ところが、ユダヤはローマの支配下にあったため、新しい王の就任には、ローマ皇帝の公認が必要でありました。そんな折、過ぎ越しの祭りで、三千人のユダヤ人がアケラオの兵隊に殺される事件が起きてしまいました。そのため、エルサレム在住以外のユダヤ人は、それぞれの居住地へ帰ることが命じられました。その後、アケラオはローマ元老院のもとへ出かけて行きました。
 ところがその留守中に、この王に対する反対と不満が民衆の間に一気に広がりました。そこで反対派は50人の「抗議代表団」を編成して、ローマ皇帝のもとに送りました。「新しい王として、国民はアケラオに絶対反対です。残る兄弟二人、アンティパスかピリポのどちらかにしてもらいたい」 
 このためにアケラオは、ローマ皇帝の前で赤恥をかかされ、面目丸つぶれでありました。とりあえず、王としての一応の了解を取り付けたアケラオは、自分の国に帰ってくるやいなや、反対派に復讐し、残虐な殺戮劇が繰り広げられました。
 
 30年昔の出来事を下地として、イエス様がこのたとえ話を話しておられるのです。聞いていた人々は、「あれだ!あの事件だ!」とすぐにわかったのです。アケラオの王位就任に反対した反対派の人々が殺戮されたように、イエス様を憎んで十字架に架けようとしていたパリサイ人や律法学者に向けて、非常に厳しい警告を語られたのが、このたとえ話の二つ目の目的です。
 
 私たちは、弟子たちのように神の国がすぐにでも現れると浮足立つことなく、しっかりと地に足をつけて信仰生活を送らなければなりません。ただし、いつ、イエス様が帰って来ても良いように準備を怠ってはいけません。
 また、パリサイ人や律法学者に非常に厳しい警告が語られたように、イエス様を受け入れない人々に厳しい裁きがあることを忘れることなく、しっかりと福音を伝えて行かなければなりません。


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