後ろめたさ、という事

30代には私は改憲派であった。
国家が軍備を全く持たない、という事は率直に言って現実的ではない。
かといって現在の憲法では軍備は持たない事になっている。
これを大いなる矛盾と言わず何といおう。

私にはその矛盾が受け入れられなかった。
現実として軍備が必要ならそれを憲法でも明示すべきであると思っていた。
これはいわば本音とタテマエの問題である。
本音とタテマエの矛盾に耐えられずに一致させてしまおうという考えは
子供などにはよくある事でやはり幼稚な考えだったと思う。

過激な原理主義やテロリズムの背景には
本音とタテマエは一致していなければならない、
一致していない現実はすぐに直さなければいけない、
というある種の幼児的な乱暴さがあるように思う。

そんな私を護憲派に転向させたのは養老孟司先生の文章であった。
うろ覚えだが簡単に紹介する。

江戸時代の東北地方、飢饉が起きるとやむなく生まれてくる赤子を殺さねばならい事もあった。
それを引き受けなければならなかった産婆さんの話である。
彼女は生まれ変わったら手のない人間として生まれ変わりたい、
このような事は来世ではしたくない、手がなければこんな事をしなくて済むと願ったという話。

現実問題として自衛隊は必要だろう、
これからは自衛隊が海外で戦争に巻き込まれること、
人命が犠牲になる事も避けられないかもしれない、
そんな時でも「後ろめたさ」というものがないのはマズイのではないか、
うろ覚えだがこのような文章だった。

この文章を読んで以来、「後ろめたい」という感情はもしかすると
人間にとって一番大切なものかも知れないと思うようになった。
人は誰でも毎日、少しずつ他人を、他者を、環境を傷つけながら生きている。
それはしかたない。しかたないけど後ろめたい。
後ろめたさを感じないのは人間として大切な回路の一部が抜け落ちている。
そう思っている。

今では「後ろめたさ」を持つ人間だけが信用に値すると思っている。
タテマエだけを叫んで「後ろめたさ」を感じない人は当事者意識のない子供のような人である。
本音とタテマエを上手に使い分けて「後ろめたさ」を感じない人はニヒリストだ。
本音を引き受けつつタテマエとの距離に苦しむ人だけが信用に値する。

護憲が正しい、改憲が正しい、と強く主張するつもりはない。
ただ現実と理想、その間で苦しみ続ける人の声にこそ耳を傾けたい。


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