のぼ〜る広報のイチオシ〜阪神タイガース野手編〜
本記事の筆者・のぼ〜る広報が、各チームのイチオシ投手と野手を1人ずつ紹介シリーズ、題して「のぼ〜る広報のイチオシ」。曜日は具体的に決めていませんが、随時更新していくシリーズものとなりますので、投稿した際は気にかけてくださると幸いです。第12回は、強打が売りの若虎外野手・小野寺暖選手です。
小野寺選手ってどんな人?(成績)
1998年3月17日に奈良県奈良市で生まれた小野寺選手は、身長183センチ体重82キロ(Wikipedia情報)と、プロ野球外野手の平均の中では身長が3センチほど高いです。
京都翔英高校時代には、3年夏の県大会で当時府内28連勝を誇っていた龍谷大平安高校と戦ってベスト8入りしたものの、続く準々決勝で敗れ、甲子園出場には届きませんでした(この話はエピソードの方で詳しく書かせていただきます)。
高校卒業後は大阪商業大学に進むと、3年の春に関西六大学リーグでMVPを受賞。さらに4年の春には首位打者と2度目のMVPに輝きました。その後2019年の育成ドラフトで阪神タイガースから1位指名を受けると、「127」の背番号がついたタテジマのユニフォームに袖を通します。ルーキーイヤーはファームで44試合に出場すると、2年目の21年は打撃が開眼。75試合で打率.315、6本塁打を放ちついに支配下昇格。背番号は「127」から「97」になりました。しかし1軍の舞台はレベルが高く、34試合で打率.179となかなか持ち味を発揮できませんでした。22年は32試合で打率.136とさらに成績を下降させてしまった小野寺選手。しかし、4月21日の横浜戦で代打で出場すると、一時逆転となるグランドスラムを放って見せました。ここぞの場面でのバッティングが光る小野寺選手、23年はキャンプで確実性を鍛えてもらいたいです。
小野寺選手ってどんな人?(エピソード)
やんわりとした面持ちの小野寺選手ですが、試合になるとスイッチが入り熱い想いを持った選手となるようです。代表的なエピソードが、高校時代の話。
当時地区で無類の強さを誇っていた龍谷大平安高校を倒すために練習を重ねた小野寺選手擁する京都翔英高校。普段の練習中から龍谷大平安高校のチャンステーマである「怪しいボレロ」を流しながらプレーしていたそうです。そして、迎えた試合では自身もホームランを放つなど接戦を演出し、1点ビハインドで最後の攻撃を迎えます。先頭打者としてフォアボールで出塁すると二死二塁からホームに同点の生還を果たすと、その時意識を失いかけたと言います。小野寺選手は当時のことを
と語っていました。どうやら感情が昂るあまり頭に血が上ってしまったようです。その後なんとか裏の守備にはついたものの、立っていられずなんと試合中に救急搬送。試合に勝ったことがわかったのはベットの上でした。「打倒平安」を心に、勝利目前で熱くなりすぎたのですね。
しかしその後の準々決勝では練習試合では大勝した相手に7点差でコールド負け。翔英ナインは前日の激闘の末燃え尽きてしまったのかもしれません。小野寺選手も点滴を打ちながらなんとか試合に出たものの、甲子園へ出場することは叶いませんでした。ですが、この熱い性格はイケイケ気質な阪神に合っているかもしれませんね。
小野寺選手のここがイチオシ!
筆者が小野寺選手の推している部分は、
恩師との約束を忘れずに背番号を背負うところ
です。まだ書いていませんでしたが、小野寺選手は来季から背番号「60」を背負うことになりました。小野寺選手が「お父さんのような方」と慕っている大阪商業大学の富山陽一監督が背負っている番号と同じで、
と語っており、プロ入り時に監督と役作したものと思われます。また、小野寺選手がつける1人前は現ソフトバンク野球振興部スタッフの中谷将大氏がつけていたもので、番号を変更したことを伝えた時には
と可愛がってもらっていた先輩から激励のメッセージをもらったそうです。様々な想いが詰まった60番で、23年は外野のレギュラー定着を目指してほしいです。
以上が小野寺選手の紹介でした。熱い想いを持った彼には、意識を失わないレベルで、野球に打ち込んでもらいたいですね(笑)。
最後までお読みいただきありがとうございました。
出典
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