見出し画像

サーフィンの歴史 #001 Greg Noll (グレッグ・ノール)

『サーフィンの歴史』シリーズは、Encyclopedia of Surfing (EOS)と公式に提携しているNobodySurfがお届けする、世界サーフィン史におけるレジェンド・サーファーたちを動画と文章で紹介するマガジンです。

今回紹介するのは1950年代・60年代に活躍した元祖ビッグ・ウェーバーGreg Noll(グレッグ・ノール)。惜しくも2021年6月にこの世を去りましたがその功績は永遠にサーフィン史に刻まれます(享年84歳)。

動画で観るグレッグ・ノール

グレッグ・ノールとはどんな人だったのか

そのワイルドさとカリスマ性で人気を博した、米カリフォルニア州マンハッタン・ビーチ出身のビッグウェーブ・ライダー。ハワイ州ワイメア・ベイの大波を開拓した初期サーファーの一人。Greg Noll Surfboards(グレッグ・ノール・サーフボード)の創始者であり、「サーフィン界のベーブ・ルース」とも呼ばれた伝説的なサーファーです。

グレッグ・ノールの生い立ち

1937年にカリフォルニア州サンディエゴで生まれ、6歳のときに離婚したばかりの母親とマンハッタン・ビーチに移り住む。母親が化学エンジニアのアッシュ・ノールと結婚し、姓がノールに。11歳でサーフィンを始め、1950年代初頭にはロサンゼルス地域で最も優れたホットドガーの一人として注目を集めていました。

ビッグウェーブとの出会い

1954年、17歳で初めてハワイを訪れたグレッグは、オアフ島西部のマカハにあるクォンセット・ハット(Wikipedia: トタンによる軽量のプレハブ工法で製作された、かまぼこ型の建物)に7ヵ月間滞在し、高校3年生をワイパフ高校で過ごしました。主にサーフィンしていたのはマカハでしたが、当時すでに危険で命にかかわるビッグウェーブで知られていたノースショアに初めてチャージしたのもこの時期。大波の魅力に目覚めたグレッグは、その後、頻繁にハワイを訪れるようになり、ノースショアに滞在する時間が増え、次第にサンセットビーチやラニアケアなどのブレイクで、さらに大きな波に乗るようになります。

1957年、ワイメア・ベイでの伝説的なチャージ

1957年、グレッグがワイメア・ベイにチャージする日が訪れます。当時のワイメアといえば、1943年にホノルル出身の10代のサーファー・Dickie Cross(ディッキー・クロス)がサンセット・ビーチから岸に向かってパドルして戻る途中に巨大なセットに巻かれて亡くなった場所として知られていた呪われた場所。その後10年以上にわたり、サーファーたちはワイメアの美しいビッグ・ウェーブを目にしながら、圧倒的な恐怖心からチャージすることができなかったのでした。

1957年11月7日、グレッグは友人のMike Stange(マイク・スタンジ)を説得し、15フィートにパンプアップしたワイメア・ベイにパドルアウト。6人のサーファーがそれに続きました。「誰が最初の波に乗ったか」については後年議論されることになりますが、誰もがグレッグがそれをリードしたという点では一致していました。結果として、彼はその後35年間ビッグウェーブ・シーンの中心となったワイメア・ベイを開拓した第一人者として、数十年間にわたり讃えられることになります。(注:後年、グレッグらが現れる前の同日朝に、シールビーチの温厚なライフガードであるハリー・チャーチが、単独でワイメアの波に初めて乗ったことが明らかになっている。)

オーストラリアのサーフィンに与えた影響

グレッグは、その前年に別の意味でサーフィン史における価値のある活動を行っています。1956年に開催されたメルボルン・オリンピックでアメリカのライフガードチームの一員としてオーストラリアを訪れていたグレッグ。彼とサーフチームの仲間たちは、マリブ・チップボードを使って即興で波乗りのデモンストレーションを行い、オーストラリアに近代サーフィンの時代をもたらしたのです。グレッグは後のインタビューで語りました。「俺たちは彗星のような衝撃を与えたんだよ。馬車から一気にポルシェに進化させたんだ。」

ビジネスマンとしてのグレッグ・ノール

また、ノールは、サーフィンを軸に様々なビジネスにチャレンジしました。
1960年に雑誌『Surfer's Annual』を発行。その翌年には『Surfing Funnies』誌(1961年)、1962年には『Cartoon History of Surfing』誌を発行しました。また、1957年から1961年にかけて、『Search for Surf』シリーズと名付けた5本のサーフィン映画を製作。

しかし、彼のメインビジネスは1950年代初頭に自宅のガレージから始まった『Greg Noll Surfboards』(グレッグ・ノール・サーフボード)でした。1965年末、ノールはハモサ・ビーチに2万平方フィートの工場を新設。この工場は当時、世界最大のサーフボード製造工場であり、ブランク・フォームの製造ルーム、8つのシェイピング・ルーム、40枚のボードを収納できるラミネート・ルームを備えていました。1966年には毎週200本のボードを生産し、その半分はアメリカ東海岸のディーラーに出荷されました。またグレッグ・ノール・サーフボードは、Miki Dora(ミッキー・ドラ)のシグネチャーモデル『Da Cat』も生産していました。『Da Cat』のサーフボード2本でつくった十字架に、ドーラがキリストのようにぶら下がっている広告ビジュアルは、瞬く間に有名になりました。

グレッグ・ノールの存在感

グレッグは当時、ビッグウェーブ・サーフィンの代名詞のような存在になっていました。大柄な体格(身長188cm/体重100kg超)と、頭を下げてビッグウェーブに激しくチャージするその雄牛のようなスタイルから、『The Bull(ザ・ブル)』というニックネームで呼ばれていました。

トレードマークである囚人服のような白黒ストライプのトランクスを穿き、ワイメアにチャージする彼の姿は、1950年代後半から60年代にかけて公開されたほぼすべてのサーフ・ムービーで観ることができます。『Surf Crazy(サーフ・クレイジー)』(1959年)、『Gun Ho!(ガン・ホー)』(1963年)、『Strictly Hot(ストリクトリー・ホット)』(1963年)など。また、1964年に公開されたビッグウェーブ・ムービー『Ride the Wild Surf』(コロンビア・ピクチャーズ)ではジェームズ・ミッチャムのスタントマンを務め、ブルース・ブラウン監督のサーフィン史に残るヒット作『The Endless Summer(エンドレス・サマー)』(1966年)にも出演しています。

コンテストにはあまり興味を持つことのなかったグレッグですが、1965年から1969年まではデューク・カハナモク・インビテーショナルに出場し、1966年にはファイナリストに選ばれたことも。

グレッグは声が大きく、酒飲みで、喧嘩っ早いことで当時知られており、時には気味の悪いユーモアのセンスを見せることもありました。Greg Noll Surfboardsの従業員が業務中の事故で親指を切断してしまったことがあり、グレッグが彼を病院に連れていきましたが、親指が元に戻らないことが分かると、工場に戻ってからその指をレジンの入ったカップに入れて文鎮にしたそうです。

グレッグ・ノール、最後のビッグウェーブ

1969年12月4日、32歳だったグレッグは、マカハの35フィートの波にドロップし、その巨大な水の壁がブレイクした瞬間にボードの後ろから飛び降りました。この波は、当時人がテイクオフした波の中で最大記録と考えられ、その後20年以上更新されることはありませんでした。そして、このマカハの波を最後に、グレッグはビッグウェーブ・シーンから姿を消します。

1989年に出版された自叙伝『Da Bull: Life Over the Edge』でグレッグはこう記しています。「あの日のマカハは、巨大な真っ黒い穴をその淵に立って見渡しているようだった。仲間の中には、あれは死を願う波だと表現した者もいた。当時はそう思わなかったが、今振り返るとギリギリのところにいたんだなと感じるよ。」

その後のグレッグ・ノール

このマカハの大波の後、グレッグはビッグウェーブ・サーフィンから退きます。Greg Noll Surfboardsを売却し、アラスカに移住してトレーラーハウス生活をスタート。その後、カリフォルニア州クレセントシティで20年間、漁師として過ごしました。

1980年代後半、サーフィンの歴史への関心が高まるにつれ、グレッグは再びサーフ・メディアの人気者となり、『Surfers: The Movie』(1990)、PBSで放映された『Liquid Stage: The Lure of Surfing』(1995)、OLNで放映されたドキュメンタリー『50 Years of Surfing on Film』(1997)、などに出演しました。その後、サンダンス映画祭でも上映された2004年のビッグウェーブ・ドキュメンタリー映画『Riding Giants』では、グレッグが自身のキャリアについて毒舌且つ饒舌に語る様子が大きな注目を集めました。グレッグと彼の息子・ジェドは2007年のサーフ・ムービー『One California Day』にも出演しています。

グレッグのビジネス・センスは健在で、1950年代にシェイプしていた板に近い木製サーフボードをつくりはじめ、コレクター向けに1本1万ドルで販売したり、『Da Cat』モデルをシリアルナンバー入りで限定生産・販売するなどしました。

1991年には、コスタリカで開催されたレジェンド・サーファーを対象とした7日間のサーフコンテスト『Da Bull Surf Legends Classic』(ダ・ブル・サーフレジェンド・クラシック)の第1回目のスポンサーとなりました。また1996年には『East Coast Surfing Legends Hall of Fame』(東海岸のサーフィン・レジェンドを讃える殿堂)の設立に貢献。

讃えられた数々の功績

グレッグは、1965年『Surfing Illustrated』誌の読者投票で、ビッグウェーブ・ライダーのトップに選出。翌1966年、『International Surfing Hall of Fame』に殿堂入りしました。1996年には『Huntington Beach Surfing Walk of Fame』殿堂入り。1998年には『Surf Industry Manufacturers Association』より『Waterman Achievement Award』を受賞。

1999年の『Surfer Magazine Video Award』のパーティーでは、サーフ・ムービーのおける功績が認められ『Lifetime Achievement Award』を受賞。2007年には『Greg Noll: the Art of the Surfboard』を出版。

2021年、84歳で他界。

(文:Encyclopedia of Surfing: Noll, Greg |翻訳・編集:NobodySurf)

動画で観るグレッグ・ノール

NobodySurf動画プレイリスト:Encyclopedia of Surfing

『サーフィンの歴史』シリーズの第1回目、いかがでしたか?

Encyclopedia of Surfing (EOS)は米SURFER誌の元編集長であり作家でもあるMatt Warshaw氏が運営する、世界のサーフィンの歴史に関する動画・写真・文章のアーカイブ化を進めている非営利団体です。寄付とサブスクリプション収益を基に運営されていますので、英語でサーフィンの歴史を学びたいという方は、ぜひEncyclopedia of Surfingに加入してサポートしていただけると嬉しいです。

NobodySurfは2018年からEOSと提携しています。詳しくはまた別のnote記事で紹介したいと思いますが、良かったらぜひ上記のEOS動画プレイリストをチェックしてみてください。

この記事が面白かったよという方は、ぜひ「サポート」ボタンから記事のオススメや支援をいただけると励みになります。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?