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筑波で生きると決まった日のこと

こんにちは。
比文のひとびと 12/13を担当いたします、比文1年の土筆と申します。
12/13といえば、ITF.23の推薦入試の合格発表日でしたね。ということで、比文に合格した日のことをつらつらと書きます。つらつらと書きすぎて7,000文字を超えてしまいました。お時間があるときに読むのをお勧めします。
あれから1年、みなさま、お疲れ様でした。少し早いですがよいお年を。


2022/12/13  6:35

とくべつを特別にする朝日ならいつも冬の日だったねと言う

柘榴の君

 わたしという人はコンクールだとかイベントだとかの日はアラームより早く起きてしまう人である。ただこの日だけは違っていて、じんわりと温かい布団に5分程度の足止めを食らっていた。
 体を起こしたときに目に入った冬の朝のひかりでようやく「ついに来てしまったな」という気持ちがついてきた程度で、だからある意味緊張していなかったように思える。
 朝ご飯が何だったかは思い出せないけれど、いつものように母に送迎してもらって、いつものように寒がっていたことは確かだった。

2022/12/13  8:00

寒いより痛いが似合う日々でした 抱きしめている沈香の熱

柘榴の君

 校舎も、いつも通りだよという顔をしていた。晴れやかな青空と、野球部がかいてくれた雪のかたまり(ちょっと汚い)と、面白くてお気に入りの先生の赤い車がいつも通りの顔をしていた。風はやっぱり冷たい。そこで、なぜかお線香の香りがした。お寺やお墓が近くにあるわけではないから、不思議に思ってふと立ち止まった。それで、あ、受かったんだろうな、と小さな確信を得た。
 祖父母はわたしのことをたいそう持ち上げてくれる人だった。こくごの教科書の音読をしたとき、書道で賞をとったとき、弁論会の原稿を学校だよりに載せてもらって、お手本のようだと取り上げられたとき。何かしらでわたしが評価されたときはいつも手放しで喜んでくれる人たちだった。ここのはらいの角度が美しい、と良いところを見つけては自慢げに話す祖父と、よく頑張ったね、〇〇ちゃんはすごい、とこっそりおこづかいを渡す祖母がいた。ふたりの棺桶に書道の作品や学校だよりを入れて、天国でも孫の話ができるね、と笑った母の顔をよく覚えている。
 あのお線香の香りは、彼らなりのお祝いだったんだろう。信じてもらわなくていいし、非科学的かもしれないけれど、それにしてはこういうことがわたしの周りではよくあることなので、これが一番しっくりくる結論である。
 3年生用の玄関に入って、雪国の冬を乗り切るにはかなり向いていないつま先の出る上履きを履いて、図書館に向かった。志望の動機を書くときにいつも座っていた席に夏目漱石の『三四郎』を持っていって、結局内容がほとんど頭に入らないまま朝のホームルームに行った。

2022/12/13  10:00

禁固四年なんつぶだかはしらないがわたしはすでにたべていたから

柘榴の君

 12月に入ってからは授業の形態が少し変わった。というのも、わたしが通っていたのは進学校だったので、共通テストの演習が中心になったのである。この日の1時間目と2時間目は英語のリーディングの演習だった。1時間目が終わり、休憩時間になると同時にわたしは廊下へ飛び出して、一緒に推薦を受けた友人とスマホを交換した。見るのが怖い、と友人がつぶやいたものだから、お互いにお互いの結果を見ようと交換したのである。
 発表の時間は10:00で、授業の再開は10:05だった。その5分は、いつの日かアンサンブルコンテストのステージに臨んだ5分よりずっと、ずっと高揚していた。サーバーが混むのはわかっていたから、サイトと某物件紹介サービスの公式LINEを行ったり来たりしていた。スクリーンショットが2枚も残っていることからわかるように、10:02、わたしは筑波で生きることが決まった。友人もである。一緒にいられる、いていいんだという実感が急に襲ってきたものだから、人目など気になるわけもなく友人と抱き合った。われわれが完全に浮かれているなかで、授業再開のチャイムがいつも通りに鳴り響く。急いで教室に戻ると推薦の担当をしてくれていた先生がいたので、小声で「あの、すいせん、うかりました……!」と報告すると、見たことがないくらい大きく目を見開いて「えっ、本当?え、やったじゃん!おめでとう!」と言ってくれた。「おめでとう」の声が、普段聞かないような喜びで震えるような声だったから嬉しくて、きっとわたしはいい笑顔をしていただろうなと思う。席について、授業は授業だから、と英語のリーディングを解き始めようとした。シャーペンを落として、握りなおして、落とす。目が滑って英文が読めない。キャンプの行程?料金?どうでもいい。顔が熱い。もう、それどころじゃない!!
 「・・・〇〇、〇〇!」と小さくわたしを呼ぶ声が聞こえる。はっとして声のする方を見ると、授業が始まっているというのに廊下から担任がわたしを呼んでいた。両手でまるを作って「どうだった?」と問いたげな表情をしていて、3秒くらいしてようやく推薦がどうだったかを知りたいのだと理解して、うなずいた。受かったってこと?そうです。と無言のままにやりとりをして、おめでとう、とも、やっぱりな、ともとれるような顔をして去っていった。わたしはもう真っ白だったから、大人しくトイレに行って、深呼吸をして、冷えきった鏡を見て頭を冷やした。定員が20人で、合格は21人。となれば、温情かなにかでわたしを合格ということにしてくれたのだろう。余裕ができてしまった。残り時間をどうしよう、とわたしは静かに考え始めた。

2022/12/13  12:00

手を合わせ「いただきました」くりかえし生きていたのだ貴方の横で

柘榴の君

 お昼休みは、ご飯を食べるより先にすることがあった。父への電話である。仕事中の母にはすでにLINEをしてある。昨年の段階で父は78歳なので、年相応の頭にはなっていたのだが、わたしの合格発表日が今日であることは忘れずにしっかりと覚えてくれていた。
 「もしもし、お父さん……あのね、筑波の推薦の結果が出てね……、受かったよ。応援してくれてありがとう」
 「受かった!そうか!おめでとう、おめでとう、よかったなあ……」
 あんなに嬉しそうな声で、しかも涙声で、こんなに褒めてくれたのはこれが初めてだったんじゃないだろうか。父はわたしが小さい頃から厳格で、礼法や態度をいつも気にかけている人だった。それが苦しかったことも、泣かされたことも、ここでは省略するが様々な思い出がある。父としての彼を尊敬できない日々が長く続いたが、今ではすべて、今のわたしになるために必要なことだったのだと思えている。とはいえ、書道で賞をとったことを報告すれば「賞をとるために書をやっているのか」とひと悶着、テスト勉強に集中していれば「勉強ばっかりやるんじゃない、家族のことも考えろ」とひと悶着など、努力をまっすぐに褒めることがあまりなかったように思えるなかで、筑波大学に推薦で入学することをここまで讃えてくれるというのはなんとなく不思議で、こそばゆい感じがした。電話口の向こうで仏様のお棚に「おーい!〇〇が受かったぞー!」と報告する声が聞こえて、余計に恥ずかしい気持ちであった。電話を切るその時まで、おめでとう、おめでとう、と繰り返す父の声は、まるで腑抜けた老人の声ではなかった。おめでとうという言葉は、ただ純粋に受け取れる言葉であったんだな、と、17歳にしてようやく気付いた日であった。

2022/12/13  16:00

演劇で救われていたモラトリアム君が君たる舞台の上へ

柘榴の君

 合格したとしても、そうでなくても、しなければいけないことがまだ残っていた。先生たちへの報告である。
 わたしは先生が好きである。何がどう好きなのか、簡潔には述べられないくらいに好きである。先生という生き物が好きなのかもしれない。先生という生き物と人間という生き物のあわいが見えると、とても嬉しいし興味深い。いろいろあるのだが、誰にでも見せていいものではないのでこれくらいにしておく。
 まずは担任のところへ赴いた。先ほど授業中に一応の報告はしてあったわけだが、改めて報告した。すっと差し出された手を見つめて、この人もこんな手をしていたんだ、と思った。甘いものが好きなのもあってふっくらとした手だけれど、皮膚が厚くてがさっとしている。握手をしたあと、明るい声で「おめでとう。よくやったね!」と伝えてくれた。まさか受かるとは思っていませんでした、奇跡みたいなもんなのでしょうね、と笑うと、いつになく真剣な声で「奇跡じゃないよ。努力したからだよ」と彼は言った。なんだかそれが急に胸に迫って、努力なんて、といつもなら言えるところで言えなかった。努力と呼べる努力は本当にしていなかったはずだけれども(合格体験記を読めばわかることである)、認めてもらえた気がして嬉しかった。
 図書館に行くと、やはりその先生がいた。朝の赤い車の先生である。ストーブの前で新聞か何かを広げていたから、先生、と声を掛けて報告した。小粒な目を見開いて、アームタッチをして、それから「おめでとうございます!」と言ってくれた。この先生にはグループディスカッションの練習を手伝ってもらったこともあったし、なんの変哲もない世間話をすることもあった。いつだって気さくに接してくれる、「先生」をしている先生だった。わたしが感謝を述べると「いえいえ私はちょっと絡んだだけで」といつも通りに謙遜して、そして友人とわたしが一緒に筑波に行くことを伝えると「ずっと一緒だね!ずっと一緒!」とはやし立てた。しきりに褒めてくれて、そして最後にやはり「私の分まで幸せになってください」とこぼしていた。
 しんと冷えた廊下の先、あの人が普段生息している研究室を訪ねると、ちょうど今からコピーを取りにいくところだったらしく、椅子から腰が浮いていた。この人はわたしが高校3年生のときに入ってきた先生で、倫理を教えてくれていた。第一印象が悪かったのだが、話をしていくうちにしっかりと沼に落とされた。この人は面白い。早くこの人と仕事がしたい、と常々思っている。少しだけもったいぶって合格しました、と言うと、彼はゆっくり拍手をした。「おめでとうございます!もー、反応が顔に出にくいからわかんなかったよぉ」と言って、少し高めの声で笑った。「そっか、じゃあもう倫理の論述指導は出来なくなっちゃったんだね。過去問とかやってみたのに。血生臭くやる必要なくなっちゃったのかぁ」と残念そうに言ったり「成績優秀な二人がね……まあ、日頃の行いですね」だなんて言ったり、彼はほんとうに彼らしく祝福してくれた。暗い校舎の隅で、階段の窓から差す光が逆光になって先生の輪郭を描いていて、その場面が今でもくっきりと脳裏に焼き付いている。
 この日の最後に訪れたのは国語研究室だった。国研のみんなに「おめでとう~!すごいよ!!」と言われて照れていると、ひとりの先生が国研に帰ってきた。この人は前述した倫理の先生とはまた違った面白さのある先生である。好きなことを語りだすと止まらない人で、そこにわたしが質問したりリアクションを返したりするものだから延々と話が続いてしまう、そんな人である。合格したことを誰かから聞いていたのか、国研の空気感で察したのか、わたしの態度でわかったのかは知らないが、わたしの報告を「うん、うん」と穏やかに聞いて、そして「おめでとうございます、はい……」と握りこぶしを差し出した。一瞬わたしは固まって、おそるおそる、こつんとグータッチをした。グータッチをするような先生ではないと思っていたから衝撃を受けたのを覚えている。明るいけれど陽気な人ではないし、体育会系の人でもないし、熱血!みたいなイメージがあるわけでもない。寒い日にこれでもかと厚着をしてストーブの前で背を丸めて、古典の話をするときだけ暑さを感じていそうな、そういう、そういう人だと思っていたから、グータッチがびっくりするほど似合わなかったのである。まさに妙な気持ちであった。本人はなんのこともないという顔をして、自信なかったの?なんで?……いやあ、でも話聞く限りいい感じで書けてたと思うよ?点取れてたと思うよ、なんて呑気に言っていた。
 別日の話になってしまうのだが、ある数学の先生に合格を報告したとき、たいへん驚かれた。というのも、わたしが推薦から帰ってきたときに、落ちたかな~って感じですね、と言っていたからである。よかったじゃん、と言われて「お前さん見てると楽しそうだなって思うからさ、ええ、本当によかったね。わざわざ言いに来てくれてありがとうございます」とお辞儀された。この言葉が記憶にはっきりと残っているので、ここに付記しておこうと思う。
 先生たちがいなければわたしは推薦に受かっていなかった。わたしは推薦を対策や学力ではなく人生で解いたようなもので、言い換えると先生たちがいなければ筑波に受かる人生を歩めなかった。同級生たちとどうも噛み合わない学校生活の中で、いちばんの話し相手は先生たちだった。高校に来て友人と出会ったおかげで学校生活は充実したが、それまでは苦しい季節が続いていた。学校に行きたくない、とつぶやいて通学路を反対に進んだあの日のわたし、四葉のクローバーを拾って校長先生に届けたわたし、ある先生と出会って国語を愛するようになったわたし。すべてのわたしはどこかで先生に助けられている。やっぱり、わたしは先生が好きである。

2022/12/13  19:30

あの夜に閉じた絵本をひらくのは僕の番だとさらっていった

柘榴の君

 「おめでとうございます!!ありがとう。感謝します」、これが母からのLINEだった。高校が母の職場と同じところにあったから、母とは車で約20分の道のりを朝夕一緒に過ごしていた。幼稚園時代も送迎は母の仕事で、小中は父が送迎してくれていた。高校に上がる時、母は「〇〇といられる時間が増えて嬉しい」と送迎役を買って出てくれた。この日の帰り、母はいつも通り、夕飯何がいい?作れるもんなら作るでね。とわたしに言った。いつも通りというのは、わたしが賞や評価をもらった時に、食べたいものを作ってくれる母なりの祝福のことである。わたしはすこし考えて、鍋がいい、と言った。鍋はわたしの好物の一つであって、餅巾着が特に好きである。そんなんでいいの?と言われたから、だって寒いし、と答えて、マフラーにうずまった。この日の鍋はうどん入りで、もちろん餅巾着も3つくらい入っていた。ちくわと、人参と、はんぺんと、水菜と、ねぎと、つみれと……いつだって母の料理はおいしい。われわれの冬は寒くて、つくばよりずっと冷える。その寒さと厳しさの中で、母の料理はわたしを救っていた。母自身は、短絡的な優しさを持った人ではない。甘やかすだけではわたしが堕落することを知っていて、行事ごとにお弁当を持たせてくれて、そこに一筆を毎回添えてくれる、そういう愛を持った人である。真面目でお茶目でちょっぴりロマンチストで、義理堅い母。わたしたちが同世代だったら、きっと友達にはなれなかっただろう。うまくいきそうなのにうまくいかなさそうで、だからこそ母子という関係がしっくり来ているような気がする。
 母はわたしの誕生日の度に「私を母にしてくれてありがとう」と言う。わたしは母のそういうところが好きで、守りたいと思う。

2022/12/13  23:15

教科書にITF.と書いてみる 筑波で生きると決まった日のこと

柘榴の君

 この日が終わる。推薦に受かったらやりたいことを2日前から書き出していて、結局2個しか書いていなかったことを、メモを見て思い出した。Instagramで見た、東京の綺麗なホテルに泊まってみたい。静岡の東海大学海洋博物館を見に行きたい。言葉にしようとしたときについてきてくれたのはそれくらいだった。これからどうしよう、と学校の鏡の前で考えたことを思い出して、結論が出ていないことも思い出した。お風呂から出た後はあまり頭が回らないから、きっと引っ越し準備とかいろいろ忙しいんだろうな、くらいしか考えられなかった。来年の今頃は、父母なしで、先生なしで、ひとりで筑波を生きているとして、それってちょっと予想がつかないなあ、というところまできて、友人のことを思い出した。
 友人とは高校1年生のときに出会った。クラスメイトに全然一人っ子がいなかったものだから、一人っ子仲間を探していた。そしてようやく見つけたのがこの友人であった。向かい合ってご飯を食べることができなかったわれわれは、いつも隣どうしにいた。わたしの人生において、初めて隣どうしの友人ができたのである。願わくば永遠にこの友人のつくるものを見ていたいと願ってしまったばっかりに、わたしも友人も筑波で生きることが決まってしまったのである。友人に電話をかけて、合格おめでとう、と言い合って、それから寝た。それで、いつの間にかこの日が終わった。
 これからどうしよう、なんて考えていたのに、忙しくてどうしようと言う羽目になるとは全く思っていなかった。入学手続き、入学前課題、物件探し、IHかガスコンロかの口論、先生たちとの思い出作り、引っ越し作業……今だって、どうしようと言っている。文字数もテーマも示されていない期末レポートがあと3つくらいあって、帰省用のお土産もあんまり考えていない。教職カルテだって書かないといけない。先生たちにはいつ顔を出そうか。どうしようがいっぱいあって、幸せってこういうことかもしれないって少し感じて、いや苦しいだろと感じて、今日はとりあえずボンカレーを食べる。筑波で生きると決まった日はもう一年も前なのに、筑波でどう生きるかが決まった日はまだ来ない。それってすごく、比文生っぽいね!


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