◎倒錯した感情あるいは利益相反な関係

 おカネについては、人と人の間に様々なレベルの問題を引き起こしかねず、そしてまた、おカネというのは、実際に、儚い人生のために浪費してきたことに対して憂慮したり、何がしかに消費してきたことに対する他者からの評価期待しているということなんだと私は思う。だから、実際のところ、おカネを自らが使ってきていないし、ほんとうに粘り強く人に投資することを考えていないようなにとって、つまり、もし、彼彼女らが急激に儲けまくったおカネというものが存在するとでも自慢したくなるときがやってくるというのであれば、それは、いつも量的なものだけを示しているわけだが、またそのことを、称賛してしまう側の意識妬みの問題でしかなく、それも、直ぐに先回りしては、事実(=根拠)などほとんど見落としているという具合やその懸念ということである。同様にして言いたくなるのは、これだけの金額を私が寄付しましたということだけの問題ではなかろうということなのである(何が目的なのか?が見えてこなければ、実際ほとんど無意味である)。大事なことは、そんなことで人を評価したりはしないですよということだし、毅然とした態度である。そして、相手をどこまでも人として感じているということへの幸福度に変えていかなければならないのである。人間の残酷さというのは、例えば、チャップリン Charles Chaplin (1889-1977) の映画でもどれか見てみるが良い。悲劇の中にも明らかに笑いを生み出すかもしれないという半ば経験的な、あるいは、悲痛感のことなのではなかっただろうか。共に快感を求めたとしても、誰も痛みは享有したくない。それに加えて「笑い」というのは、一対一というより、通常のパターン化されたマンネリ世界とは外れたところ、要は、ある社会集団というものが、個として認識できない外部の他者性大衆的娯楽へ堕とし込むことで受け入れようとする試みでありその妥協的産物であろう。あるいは、他者を単純に「可哀そう」と思うことならまだしも、それを口に出すだけで、大して何もできないくせに、"Political correctness"(「政治的正しさ」)よろしく、またそのように見せることで自らに対する好評価を稼ぎ出したいというあたりにその人間性への疑いがすでに見られてきたのであって、全く質を問うてはいない。仮にだ、いま学歴主義という考え方があったとしよう、ところがその「学歴」とは一体誰のそれであって、また、誰にとっての「○○主義」ということなのであろうか。個人的「○○主義」もあれば、集合的「○○主義」への同調が気になっている場合もあるだろう。個人が学歴を問題にする場合は、一つは、その対価であろう。次に、イメージ形成への是非である。他方で、ある集団が学歴を問題にしたいとき、まず、この「○○主義」とやらに群がっていく現象と同じである。しかしながら、その中にあって個人化という没個性が存在していることも忘れてはならない。他者の学歴を何かの指標として見ている場合、現にどうであろうか?。それぞれ同じ学歴を持っているとか似たような学歴を持っているからとか判断したところで、それらが同じ人間の中身ではないことははっきりしている。また、ある学歴を有しているものが、どれくらいそれを誇りにしているとかそうでないかということも、どの程度の努力を要した結果のそれであったか等における差異についても軽視する。長い目で見るならば、そうした仕訳自体は差別意識に繋がるわけです。学歴とは、確固たる学に対する過去の経験だけでなく、その国家が求めている頭脳への承認を可能とした制度ということになります。とはいえ、いま学べているのは何か何をどのように学ぼうとしているのか、といったことを基本に広範な認証システムが組み込まれるべきでしょう。それだけではありません。広く開かれた制度であるというからには、落ちこぼれを生まないというより、人間として考え方への偏見そのものを無くすことですから、その延長線では、もはや学歴の有無を問わなくなるであろうという社会を幾許か想像できようものならば、それこそ真の「学歴無償化」である。

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