◎日本近代化の先駆者――――――――江戸時代後期における儒学者の系譜◎

江戸時代 中期

折衷学派

江戸時代 後期

 『言志四録(げんししろく)』
 重職心得箇条(じゅうしょくこころえかじょう)



 『洋外紀略(ようがいきりゃく)』

1937(天保八)年

我が田原は、三州渥美郡の南隅に在て、遠州大洋中に迸出し、荒井より伊良虞に至る海浜、凡そ十三里の間、佃戸農家のみにて、我が田原の外、城地なければ、元文四年の令ありしよりは、海防の制、尤も厳ならずんば有るべからず。・・・・・・・・本年七月、和蘭甲此丹莫利宋なるもの、交易を乞はむため、我が漂流の民七人を護送して、江戸近海に至ると聞けり。」

慎機論(しんきろん)』

 

1839(天保十)年;蛮社の獄(ばんしゃのごく)




栗本 鋤雲(くりもと じょうん)
 1858(安政五)年に、幕府に蝦夷地移住を命じられた。樺太や南千島の探検を果たす。函館滞在中、薬草・病院・疏水・養蚕などの事業において功績を上げた。1862(文久二)年、士籍を得て、箱館奉行組頭に任じられる。翌年に江戸に戻る。1864(元治一)年、目付となり横浜鎖港談判* にあたる。さらに翌年には、外国奉行となり、以後、幕府とフランスとの橋渡し役に努めた。幕末における親仏派として、将軍慶喜の幕政改革を補佐した。明治維新の後は、ジャーナリストに転身。60余編の遺著が『匏庵遺稿』に所収。
* 横浜鎖港問題


『西国立志編』

Samuel Smiles (1812-1904)

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