『保元物語』に関して

【キーワード】 『今鏡(いまかがみ)』 院政(いんせい) 怨霊(おんりょう) 熊野詣(くまのもうで) 軍記物語(ぐんきものがたり) 源氏(げんじ) 権門勢家(けんもんせいか) 後白河天皇 金刀比羅本 西行(さいぎょう) 讃岐 上皇(じょうこう) 白河北殿(しらかわきたどの) 崇徳院(新院) 崇徳天皇(すとくてんのう) 摂関家(せっかんけ) 惣領 平 清盛(たいら の きよもり) 半井本(なからいぼん) 『風雅和歌集(ふうがわかしゅう)』 藤原 師長(ふじわら の もろなが) 平氏(へいし) 平治物語(へいじものがたり) 保元・平治合戦図屏風 保元の乱(ほうげんのらん) 保元・平治の乱 保元物語(ほうげんものがたり) 源 為朝(みなもと の ためとも) 源 義朝(みなもと の よしとも) 蓮如(れんにょ)


 保元の乱(1156)の顛末(背景・経緯――経過――その後)を描いた軍記物語で成立は鎌倉時代前期か。作者については諸説あるが不詳。『平治物語』『平家物語』『承久記』と併せて「四部合戦状(四部之合戦書)」とも呼ばれていた。(『平家物語勘文録(へいけかんもんろく)』)。『平家物語』より先出と考えられている。


 それよりこのかた、内裏(だいり)・仙洞(せんとう)に侯(こう)ずる源平両家の兵(つはもの)ども、或は親父の命をそむき、或は兄弟の孝をわすれ 思ひ思ひ心々に引わかれ、父子・伯父甥・親類・郎従にいたるまで、みなもって各別(かくべつ)す。日本國大略二にわかれて、洛中(らくちゅう)の貴賤上下、申あひけるは、「世今はかうにこそあれ、たゞ今うせはてなんずるにこそ。新院と申は御兄、内裏と申は御弟なり。関白殿と申は御兄、左大臣殿は御弟也。内裏の大将軍には、下野守義朝・安芸守清盛、院方の大将軍には義朝が父六条判官為義、清盛が叔父平の右馬助忠正上といひ下といひ、いづれ勝劣あるべしともおぼえず。但合戦のならひ、かならず一方はかち、一方は負くるならひなれば、かねて勝負しりがたし。是は只果報の淺深(せんじん)により運命の厚薄(こうはく)にこたへし。」とぞ申し合える。

『保元物語』(上)新院御謀反思し召し立たるる
永積安明 島田勇雄 校注『(日本古典文學大系 31)
保元物語 平治物語』(岩波書店, 1961)参照

後白河院御即位
法皇熊野御参詣並びに御託宣

手にむすぶ水にやどれる月かげのあるかなきかの世にもすむかな

「手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ」(紀貫之)

『拾遺和歌集』哀傷

法皇崩御
新院御謀反思し召し立たるる
官軍方々手分け
親治等生捕らるる
新院御謀反露顕並びに調伏の事付けたり内府の意見
新院為義を召さるる
左大臣殿上洛
官軍召し集めらるる
新院御所各門々固めの事付けたり軍評定
将軍塚鳴動並びに彗星出
官軍勢汰

高松殿址(高松神明神社)

白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる
白河殿攻め

白河北殿址

新院・左大臣殿落ち給う
新院如意山に逃げ給う
朝敵の宿所焼き払う
勅を奉じ重成新院を守護し奉る
関白殿本官に帰複し給う
新院御出家
左府御最後付けたり大相国御嘆き
謀反人各召し捕らるる
重仁親王御出家
新院御歎き
為義降参
忠正・家弘等誅せらるる
為義最後
義朝弟ども誅せらるる

義朝幼少の弟悉く失はるる
為義の北の方身を投げたまふ
新院讚州に御遷幸
左大臣殿の御死骸実検
左府の君達並びに謀叛人各遠流
大相国御上洛
為朝生捕り遠流に処せらるる
新院御経沈め


讃岐

詞書
「讃岐より都へのぼるとて、道より崇徳院にたてまつりける」

思ひやれ都はるかに沖つ波立ちへだてたる心細さを」(崇徳院)

『風雅和歌集』巻九 旅歌




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