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小寺の論壇:コデラはいかにしてニッチに立っているのか

小寺信良が知財、IT産業、ネット、放送、買ったもの、ライフハックなど、気になるところを語ります。

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以前Clubhouseのイベントに呼ばれて、ライターの生き残り戦略みたいなことを話してくれと言われたことがある。WEBライティングの仕事は多少の増減を繰り返しつつも、トータルとしては増え続けていると思うのだが、それ以上にライター志望の人が増えており、供給過多になりつつあるようだ。

そんな中、多くのライターが生き残り策を探しており、参考になる話を、ということなのだが、コデラは正直、無戦略でここまで来ており、狙いました、成功しました、みたいな話はなんにも持ってないので、聴いてる人たちにはまことに気の毒であった。

先日はドリキンさんのBackspaceに出演させてもらい、超ベテラン、みたいな紹介をされたのだが、それもなんとなくむず痒い思いだった。実はコデラは途中転職組なので、ライター歴は20年ぐらいしかない。年下の西田さんのほうが、よっぽどライター歴は長いんである。

そんな自分がここまでライターとして生き残れた理由を一生懸命考えてみたのだが、要するに「持ってるカード」を無駄にしないで出してきた、ということに尽きるのではないか。

世の中には、「ニッチ」という言葉がある。少数の尖ったニーズを捉えることを指すイメージだが、元々は教会のような石造りの建造物の壁に施される、くぼみのことである。日本語では壁龕(へきがん)という。このくぼみにキリスト像などが据えられるのだが、要するに誰も立ってないくぼみ、という意味だ。

コデラが今日あるのは、誰も立っていないニッチを見つけて、そこに立つことができたから、に他ならない。今日はそんな話をしてみたい。

■「放送技術者」というカード

20歳で技術系専門学校を卒業し、東北新社グループのポストプロダクションにテレビ技術者として就職した。そこでは編集技術を覚えるだけでなく、大規模な改修工事も経験したので、システム構築みたいなことも覚えることができた。大規模ポストプロダクションは、もうアンテナを立てれば放送局になれるぐらいの設備規模があるのだ。

そこを辞めたのち、渋谷のNHK本局の報道へ編集者として出向することになるわけだが、そこで実際の放送局の中のシステムと、放送の送出技術を学べた。

1990年に入る頃、ポストプロダクションの世界はフルデジタルの波が押し寄せ、新規のポスプロでシステムの立ち上げから参加できたのも大きかった。セットアップされたシステムを使って編集ができるだけでなく、システムをゼロから作っていく知見が得られたのは、後に独立したときに大きな自信となった。

合計12年のポスプロ勤務から、32歳でフリーランスとなり、つてをたどっていろんなポスプロへ出入りするようになった。それが1993年ごろだろう。人が足りない編集室の助っ人で働いたり、CGアーティストと仲良くなって、自分でもCGを作るようになっていった。Amigaからコマンドを出して、デジタルVTRにコマ撮りさせていくシステムを構築するとか、アーティストとエンジニアの中間で変なことを色々やってきた。

そうこうしているうちに、DVカメラが出てきて、コンシューマもデジタル化していった。1998年頃、パソコンにIEEE 1394インターフェースカードを入れてデジタル取り込みができるようになると、自分でタワー型パソコンを組んで、オリジナルの編集システムを作った。当時ケーブルテレビ局や衛星放送局はDVCAMやDVCPROといったDV系のシステムが導入されていたことから、自宅で番組編集の仕事を請け負うようになっていった。

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