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ベネチアは後から沁みてくる?

コロナ明け久しぶりのベネチアビエンナーレに出かけてきました。ご存じの方も多いと思いますが、この芸術祭は1985年に発足した世界で最も長い歴史を誇る国際美術展。今もここでは2年に一度、世界のアートシーンの最新動向を知ることができるのです。

アートの仕事を始めてから、これは行くべきなんだろうなと思い立ち通い続けています。今もそうですが、私は「きれいなものしかアートと思っていない」「インテリアにアートを合わせるなど言語道断」といった類のことをずっと言われ続けています。けれど毎回ビエンナーレを訪れることで、現代アートは美しいだけのものではないと重々承知しているつもりです。さらに言えば家に飾る心休まるアートも、エッジの効いたアートに繋がっていることを、多くの人に知ってもらいたいといつも考えているのです。家にアートがあれば、多少過激な作品を眼にした時も、受け入れ態勢ができているはずですから。

そんなビエンナーレですが、近年ますます政治色、社会情勢を色濃く映し出す傾向が強まってきているようで、見ているとかなり疲れます。それらもひっくるめてベネチアビエンナーレなんだよなあ、とわかりつつ疲労困憊。そして見ている作品を理解をしているのかと言われると、正直、いえ全くとしか言いようがありません。もちろんひとつひとつの作品を作家から説明されて回るのなら理解も深まるのでしょうが、いくら翻訳アプリがあるとはいえすべてを咀嚼しながら鑑賞するのは至難の技。だってその作品数たるや膨大なんですから!

さてこのビエンナーレ期間中はメイン会場以外にもそれは素晴らしい展覧会を観ることができます。今回も楽しみにしていたのがプラダ財団の美術館訪問でした。以前訪れたときには、これぞベネチアといった素敵な建物での展示が素晴らしく、まさに息をのむといった瞬間に満ちていたのです。

しかし、、、今回の展示は最初から謎だらけ。作家の意向で美術館としての看板は撤去されチケット売り場内もなんだかキッチュなものが溢れており、本当にここは私が前に来た美術館?と何度も確認する始末。以前訪れた雰囲気とはまるで違います。グーグルマップは確かにここを示しているのだけれど。訝しさが頭に渦巻く中、展示空間に入ると絶句するような展示内容です。空間はほこりにまみれた無数の”もの”たちがぎっしり。ぶっ飛んだ現代アートには慣れっこの私でさえ「とほほ、どうしましょ?」という感じ。(後日談:そのガラクタの山に実は本物のお宝が混じっていたのだとか)

さて今回のアート旅にご一緒した2人は以前からアート好き。そこに私の影響もあり現代アートにも興味津々なのですが、ベネチアについて最初の現代アート洗礼がこの展覧会とあっては、意気揚々とここへ連れてきた私もアタフタ。難解な現代アートでもベネチアの豪奢なお屋敷で見ると、そちらにも当然目が行くわけで観光気分も味わえるはず、、、はずでしたが、展示作品のあまりの(とっちらかった)凄さに空間を楽しむどころではありません。2人に「ごめん」と何度も心の中で詫びつつそこを後にしました。

その後2つのメイン会場ジャルディーニ(万博後の建物を使用し各国の代表作家の展示がある)とアルセナーレ(造船所跡地の巨大な空間にこれでもかと作品がぎっしり)を回ったのですが、何度もビエンナーレを訪れている私も毎回最後の方ではぐったり。プラダ財団での「???」な展示を見た後では私以上に2人は疲れたに違いありません。

ホテルに戻りプラダの展示がどうにも気になった私はSNS上で情報をかき集めました。読んでいるうちに展示の意味を知り、深く納得。アーティストはスイス人のクリストフ・ビュッヘル氏で展覧会タイトルは「モンテ・ディ・ピエタ」。その意味はルネッサンス期に貧しい人々が高利貸しに依存しないで済むように設立された公営の質屋のことだそう。さらには58回ビエンナーレで、1000人近い難民を乗せ地中海に沈んだ船をそのまま展示した作品の、あのアーティストなのだ、とも気づいたのです。当時その作品を見た時、表現があまりに直接的過ぎるという理由で肯定する気分にはなれなかったのですが。

情報に目を通し頭を整理した後、2人にざっと解説したところ、彼女たちの反応は「こういうのが面白いよね~現代アート。あとから復習する感じ」と、結構面白がっているのです。確かに難解なアートを見た後に謎解きのように、いろんな背景やテーマが見えてくると、二度おいしい感もあります。思えば私は20年近くそんな確認作業を行ってきていたのです。そのなんだかわかんない感じが良い具合に心を刺激し、さらには普段使っていない脳の部分までも刺激する感覚を味わうのは、いつしか私の日常になっていたのだと今回再認識。

しかし考えてみると毎回そうなんですね。ベネチアビエンナーレって。圧倒的にすごい(これ例外の形容詞が浮かばない)作品をこれでもかって見続けて、よくわからないままに「あ~疲れた~」なんてベネチアを後にして、しばらくするとじわっと沁みてくる感じ。飛ばし見していたようで、それぞれの作品の持つパワーが強烈で、心にしっかり残像が残っていて、たまにフラッシュバックする時がある。そんなあれこれを消化するのに最低2年はかかるから、やっぱりビエンナーレ(2年ごと)の意味があるというものです。振り返れば、一番最初に訪れた2011年のビエンナーレもまだ消化できているのか怪しい所。でもあえて消化せずに、ずっと自分の中でふわっとした疑問を残しながら、記憶と向き合うのもビエンナーレの楽しみなのかもしれません。

帰ってきてからもなぜか一番思い出すのがそのプラダ財団での展示の様子。きっと私にとって何年かしてから”あの場所に確かにいた”ということが大きな意味を持つように思うのです。経験上そう思わせてくれる展示はそうはありません。そう思うと展示空間に入った瞬間に、湧いてきた疑問や戸惑い、ちょっとした恐怖といったザワザワとした感覚さえも、大切なアートの思い出として心に刻まれた気がします。

そして数年後、あの空間に立ち会い作品の目撃者であったことがどれほど幸運であったかを悟るとき、同行した2人も私と同じように感じてくれていると信じているのです。


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