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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓


   第十講  ヒルレル(2)


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J・エルネスト・ルナンは、ちょっと複雑な人です。一八二三年にブルターニュで生まれ、一八九二年にパリにて六九歳で死去しています。父親を早くに亡くし、生まれ故郷ブルターニュの神学校で学んだ後、パリの大学に進学するのですが、そこで第二帝政時代の啓蒙思想的科学思潮の流れにまきこまれて信仰を危うくし、ついには聖職者の道を断念し、信仰も捨てます。「イエス伝」は十九世紀の最先端の科学的合理主義の所産でもあるのです。
パリでは、一八四八年の革命とそれに続く反動的弾圧で、事実上フランス革命は終止符を打たれ、ナポレオン三世が簒奪した第二帝政の時代に入るのですが、この間に湧き起こった革命的思潮は一種の時代的熱病のようなもので、欧州全土を猖獗し(四八年には、ドイツで、マルクスの「共産党宣言」が刊行されています)、様々な人たちがこれに罹患しました。ルナンがパリに行かなかったら、おそらく故郷で敬虔な聖職者になっていたでしょう。

同時代というには少しズレますが、私はランボーを連想します。同じようにフランスの信仰篤い家庭に生まれ、早くに父を失ない、母親の厳格なるカトリック教育で育った挙げ句、パリコミューンの時代に、ついに無信仰となった天才詩人の肖像と、ルナンの姿が重なるのです。他にも厳格なカトリック教育の反動で、逆により異端的な文学へと、ほぼ反対側に振れた文学者の系譜として、他にも、ランボー、ロートレアモン伯、ジェームズ・ジョイスなどがありますが(そして、彼らはみな七〇年代に私が好んだ作家たちですが)、それに連なる人物のようにも感じられます。

特にルナンには姉が、ランボーには妹がいて、ともに素朴な信仰心に篤い女性で、当人に強い影響を与えているのも、どこか暗合的な共通点です。孤高で孤立した異端的文学者でも、肉親の情愛には、ほだされるようで、ランボーは片脚を壊死で失なう重体の身を、アラビアまで駆けつけた信心深い妹イザベルに看取られて、死の間際にカトリックに再改宗しました。詩壇に革命を起こした天才も最期は人間として家族の情愛につつまれて死んだわけです。故郷のシャルルヴィル郊外の墓地に兄妹の墓標が白く立ち並んでいるのは、この最期あってこそでしょう。パリで著名な無神論者の詩人のままだったら、カトリックの教会が埋葬を受け容れたかどうか判りません。
もっともルナンはパレスチナ旅行の際に同行した姉アンリエットとともにマラリアに罹患し、回復した時には姉は死んでいたのですが、彼女の存在がなかったら「イエス伝」の内容もより過激になっていただろうとされていますから、その感化の力は死後も強くあったことになります。逆に死後もルナンを視つめていて、棄教者ルナンは信仰篤かった姉の視線を常に背中で意識しないではいられなかったのかも知れません。

民俗学者、柳田国男はその女性特有の呪的霊力をシャーマンとしての「妹(いも)の力」と呼びました。近親者や配偶者の女性が男性に巫女のように霊力を分かち与え、その偉業を支える、といった素朴な古代的信仰の世界の話ですが(それゆえ、ルナンは認めないとは思いますが)、あることはあるのだな、と思わないではないことです。
こういう説を読んで、私がすぐに思いつくのは、マンガ家の石ノ森章太郎氏で、喘息の持病があったお姉さんが氏の最大の理解者でもあった。その姉が倒れて特効薬として打ったモルヒネによって心臓発作で亡くなったそうです。しかし、いったん安静になったので石ノ森氏はときわ荘の漫画家仲間と一緒に映画を観に行って、帰宅した時にはもう亡くなっていた由で、その慚愧の念いかばかりか。そして、この女性の面影はそれ以後の氏の作品、「ジュン」や「幻魔大戦」などに色濃く、いつまでも影響を落とし続けてていました。

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ルナンは、一八六〇年から二年間、政府の仕事でパレスチナ地方の学術調査団の指揮を執ったことから(それでマラリアになるのですが)、帰国後はパリ大学のヘブライ語主任教授職を得ます。ところが講義の初日に不用意にもイエスのことを「神と呼んでもよいほど偉大なる『比類なき人間』」と言って物議をかもし(つまりイエスを神ではなく人間だ、と宗教国フランスで堂々と公言したのです)、七〇年に復職するまで講義できませんでした。この期間に著したのが「イエス伝」です。さすがに初日で首になったので、執筆で失意を癒やそうとしたらしくあります。しかし、六三年に刊行した「イエス伝」は賛否両論に沸騰し、ルナンは反対派からは悪魔呼ばわりされ、バチカンはこれを禁書にしました。他方、サント・ブーヴなど近代批評を確立した進歩的論者などには賞賛を得て、ルナンは喜んだそうです。ダーウィンが「進化論」を刊行したのが、この直前の一八五九年だったので、科学的合理主義の思潮も高まっていた時代でした。
しかし同時に、フランスはようやく国内の動乱を鎮静化し、その間に失なった植民地(たとえば北米や西アフリカなど)の権益を挽回しようと、アフリカ大陸に眼を向けていた時代でもあり、特に英国の3C(縦断)政策と真っ向から衝突する横断政策は後にファショダ事件を起こしたりしています。世界は捲きこまれた革命の熱を冷まし、それら列強は帝国主義戦争の時代へ入っていくのです。

そうした時代的背景を捨象したとしても、今の目から見ると、「イエス伝」は、いかに十九世紀の本であれ、確かに問題が多く、特に非常に人種差別主義的な文言が多いのが目立ちます。キリスト教文献ですからユダヤ教に厳しいのは当然としても、イスラムやベドウィン等への偏見が酷く、これは古典だから許されるので、今この本を新規に出版する勇気のある版元は海外ではないでしょう。それほどまでに根拠のない西欧至上主義のレイシズムが強烈です。

ルナンは、アンチセミティシズム(反ユダヤ主義)やアシュケナージ・ユダヤ人のハザール国起源説などを最初に唱えた人物としても知られています。またセム族(=ユダヤ人)はアーリア民族より劣等な種族だと唱え、本来、言語学上の分類であったセム語族とアーリア語族を民族的対立概念として把えた、おそらく最初の一人でもあります。そして、イエスはアーリア民族の祖であり、有害なイスラム教がユダヤ教を継承したなどと、他の宗教についても、ムチャクチャなことを主張しています。ナチスの思想的源流と言われても反論できないでしょう。今日でも、たいていのクリスチャンはイエスがユダヤ人とは中々認めないのですが――彼らに「イエスはユダヤ人だ」と言うと、怒って「違う(ユダヤ人ではなく)神の子だ」と言うそうです――、それらのクリスチャンが持つ信仰を超えた人種差別の意識と思潮は、ルナンのこの書をもって嚆矢となった感があります。

結局、ルナンは、フランス第三共和政の反ユダヤ主義のイデオローグとなり、この潮流がやがてドレフュス事件を生み、それを直接パリで取材したユダヤ人のジャーナリスト、ヘルツェルがシオニズム運動を興す起爆剤ともなったわけです。
歴史上の出来事の流れというものには、原因があって、影響があり、結果があるのだ、という感慨を新たにする一冊です。

それで、ルナンがヒルレルを「イエスの精神的な父」といった理由ですが――、

「イエス伝」には目次がなく、また各章が等分の量に書かれておらず、第二章はわずか六頁でイエスの故郷ナザレを、ルナンが自分の目で見た情景を交えながら鮮やかに蘇る美しい描写で描いています。そして次の第三章で、「イエスの教育」という章題で、イエス時代のユダヤの文化状況を描いており、そこにヒルレル(岩波文庫版の表記では「ヒッレル」)が登場します。

「しかし、ヒッレルの教えは、イエスに知られないではいなかったようである。ヒッレルは、彼より五十年前に、彼の箴言と甚だ類似した箴言をのべていた。ヒッレルは、つつましく貧乏に耐えていたこと、柔和な性格を持っていたこと、偽善者や祭司に反対していたことなどからして、もしイエスのあのようにも高い独創性に向かって師という言葉を用いることが許されるなら、イエスの師であったということができる」(八三頁から八四頁)

おそらく、ベンダサンが「(ヒルレルは)イエスの精神的な父である」と言ったのは、この箇所を指してのことだと思われます。
ただし、上記のように、いやに持って回った言い方で判るように、ルナンは全面的に当時のユダヤ教の思想に共感はしていません。いくつもの留保付けをした上で、イエスへのヒルレルの影響を認めざるを得なかった、という印象です。それは、(ルナンが考えた)イエスが受けたであろう「教育」の問題と切っても切り離せない関係があります。
もっと率直に言うと、ルナンは完全に間違って理解しており、それはしかも、当時の西洋社会が理知こそ全て、という科学的合理主義の世界であることから来る次代の産物的な、それは誤解だったのです。

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すこし脱線しますが――、
私は、イエスが、どのようにして、あれだけの博学と叡智とを身につけたのか。そこが不思議でした。新約のどこにも、彼が特別な教育を受けたとか、そういう形跡があったとの記述はない。ガリラヤは「罪の町」であり、ユダヤ地方でも田舎に属し、イエス自身も貧しい階層の生まれで、木工大工職人として日銭を稼ぐ生活を送っていた。識字能力があったかどうかすら不明です。イエスは一体どこで、あのように深い理知と見識を獲たのでしょうか。

私は、高校時代の聖書の時間に、牧師である教師から教わったことを、まだ割りと鮮明に憶えているのですが、ヨハネ書の「姦淫の女」の場面で、イエスを試すためにパリサイ派の連中が「姦淫をしている時につかまえられた女」を引きつれてイエスの前に立たせ、この女を石打ちで殺すべきか、どうか、あれこれ詮議しています。その間、イエスはそれを聴く風でもなく、

「しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた」(第八章第六節から第八節)

――とある場面を引いて、
「これが新約聖書で唯一、イエスが何かを書いていた、という箇所です。まさかこの状況で絵を描いていた、とも思えないので、昔から議論は分かれてはいますが、イエスは文字を識っておられたのだ、と思われる箇所でもあります」
と教わりました。

しかし、これだけでは、それこそ絵を描いていたかも知れないんだし、文字を書いていた証拠とは言えない。そもそも、この緊迫した状況で書く文字って一体なんだろう。申命記の条文だろうか。だから、これをもってイエスが識字能力があった(=読み書きが出来た)とは確実には言えないでしょう。

該当箇所の英文を見ると(欽定訳)、

「This they said, tempting him, that they might have to accuse him. But Jesus stooped down, and with his finger wrote on the ground, as though he heard them not. So when they continued asking him, he lifted up himself, and said unto them, He that is without sin among you, let him first cast a stone at her. And again he stooped down, and wrote on the ground」

――とあり、確かに「write」という用語(過去形)なので、ここは通常なら「文字を書いていた」と翻訳するでしょうが、英語の「write」は語源的には「引っかく」「描く」であり「文字を書く」というのは後世の用法です。OED(オックスフォード英語辞典)では、その単語の初出はいつでどこか、また語源は何かまで調べられます。そこでネット上の無料OED(※)を検索すると、「write」の起源は古英語(一二世紀以前)で「writan(もともとは樹皮にルーン文字を引っ掻き込む)」意味だったとあります。古代の聖書のテキストをそのまま読めば、「文字を」という目的語はどこにもないのです。
※)https://www.thefreedictionary.com/

さらに念を入れて、ネットでヘブライ語のヨハネ書の聖句テキストを探し出し、それをグーグル翻訳にかけて英訳させると、最初の行は、

「and put his finger on the ground」

――となりました。
さすがにヘブライ語のグーグル翻訳の精度までは判りませんが、どうやらヘブライ語聖書でも「文字を書いた」とは書いていないらしいことが判ります。「put」には「置く」とか以外に、「記入する」といった意味もありますから、精いっぱい訳して「そして地面に指でえがいた」くらいでしょうか。

すなわち、イエスが、果たして文字を知っていたのか、どうか。上記のような証言だけでは、確かなことは何も言えません。こういう時、私は判らないことは判らない、という判断でよい、と思っています。特に、聖書のような策みや罠に満ちた本では、そうです。自分に納得できることなら首肯しますが、できなければ判断保留する方が正直でよい。変に悪しき想像をたくましくして、間違った結論をみちびくよりは、判らないことは真摯に判らない、と言っておいた方がましです。

さらに言えば、(第五講「ギデオン」の項目で述べたように)イエスがたとえ文盲だったとしても、それはイエスの偉大さを少しも損じるものではありません。なんとなれば、宗教人としての彼の偉大さは、高等教育を受けたとか、生まれが高貴だったとか、そうしたところから来ているものではないのです。むしろ、古代の属州ユダヤの田舎村ナザレで生まれた、平凡で貧しい大工の子が、あのように崇高な宗教的哲理を語り、布教し、そして殉教したことこそが、偉大なのです。少なくとも「史的イエス」の偉大さとは、そういうものでした。

あのユダヤ民族の裏切り者のヨセフスは、自分が祭司階級の生まれだったとか、若い頃にユダヤにある三つの派(パリサイ、サドカイ、エッセネ)全てを学んだ後、洗者ヨハネのような聖者の下で修行したとか、聞かれもしないのに誇大に自己を飾るような(虚言としか思えない)自己宣伝をしていますが、私からすると、自分が戦時中に取った心卑しき業を、そうした虚飾によって帳消しにしたいのだろうか、と思わざるをえません。

実を言うと、似たようなところは実は若い頃のパウロにもあるのですが――彼が国際都市タルソで生まれたことによりローマ市民であり、裕福なゆえに首都エルサレムで当代きっての大碩学のラビ・ガマリエルから教えを受けたこと、これら全てはパウロが持って生まれた幸運で、しかも、彼はそのことを誇らしげに語る、謙虚の精神に欠けた青年でした。確かに、あの遼遠なる宣教旅行を成し遂げたことは偉業ですが、青年時代のパウロは鼻持ちならない金持のお坊ちゃんでしかありません――、私は、そうした矮小な人間の卑しい自己誇張や、その実、隠し切れない肥満した臆病さが、どうしても好きになれないのです。

イエスが偉大であるのは、そんな生得の肩書きなどではありません。市井に生きる平凡な一職人の倅が、そのような行動を取り、傑出した言説を発し、そして教団を率い、やがて預言書の「苦難の僕」通りに、ユダヤ人すべての罪を被って惨めな死を死んだことで偉大なのであって、断じて、その学歴やダビデの末裔といった捏造された出自により偉大なわけではない。

それにしても、どの福音書を見ても、イエスの喩話(たとえばなし)は興味深く、聴く人を引きつけます。その奥には労苦に耐え、貧窮に喘ぎ、生活の苦難に満ちた人生を送ってきた人のような老成した英知が横たわっている。伝承どおり、イエスが当時、三十歳の青年だったとしても、どうしたらその若年で、そのような達観ができるのか。ましてや、その時すでにエルサレムで死ぬことを覚悟していた、としたら、なおさらそこで披露される物語には、奥深いものを感じないではおかない。当時の貧しいユダヤの、それもガリラヤという(罪の土地とまで蔑まれた)土地にあって、どんな体験を積んだら、それほどの慈愛にみちた博識を持てるのか。イエスの言葉には血肉が備わっていて、だからこそ読む人の心に沁みるのであって、ガマリエルやその弟子パウロのように、生まれながらにして裕福な家系や祭司階級にあって、正統なパリサイ派の学舎で学んだ結果なんかではないのです。

ルナンが、安易に、その因由を、イエスが受けただろうと想像を逞しうした、ユダヤ教の識字教育に求めた気持ちは、時代を思えば、判らないではないのですが、彼はもっと広汎に知識をひろげるべきだった、と私は思います。実際には、古代ユダヤの教育システムは、ルナンが考えていたようなものではなく、そしてそれは彼のイエス理解の限界をも示す、近代理性と古代の叡智との断絶でもあったのでした。

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