「日本人とユダヤ人」講読
野阿梓
第八講 パウロ(3)
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異邦人問題より前に、教団内では言葉をめぐる軋轢が、不協和音のように使徒行伝には記されていました。使徒行伝には、
「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた」(第六章第一節)
これに対してペテロは、十二使徒に弟子全体を集めて、自分たちは神の言葉に仕える者なのだから、瑣事に携わるべきではないだろう。それゆえ皆の中から適任者を七人選んで賄いの仕事をまかせることにしたい。そう言うと会衆全員が一致して賛同したため、ステパノ以下七人の者が選ばれています。ここで選ばれた七人全員がギリシャ名であることを重視する人がいます。おそらく、ギリシャ語圏からエルサレムに移住してきたディアスポラ・ユダヤ人だと思われます。つまり全員がヘレニストです。
この挿話は、些細なことに思えますが、組織内に、すでに従来はそれだけだったはずの「アラム語を話すユダヤ人」以外に「ギリシャ語を話すユダヤ人」が多く参入してきていて、両者の間には微妙な齟齬をきたしていたことを物語っているでしょう。宗団指導者と共同体内部の信者たちの間に、すでに亀裂が走り始めている兆しです。
「やもめ」とは寡婦(英訳=their widows)のことで、ここでは、ヘレニストの寡婦たちが(ヘブライストに較べて)不公平な食料などの配分をされている。と訴えている。これは一見、極めて小さい卑俗な話題のようですが、実はそうではない。単に寡婦たちにとっては死活問題だと言うようなことをはなれて、もっと根源的で重要な問題なのです。
ユダヤ教では、申命記に記されている古い規則があります。ルツ記で触れたように、「落ち穂拾い」の権利を寡婦が持っていたように、ユダヤ教徒には、寄留者や寡婦や孤児に対する手厚い保護を、古代から神命によって義務づけられているのです。
そして、本来、寡婦や孤児の世話は、神殿を預かる権威者が分配をしていたのですが、この時期、同じユダヤ教徒でも、ナザレ派(キリスト者)はユダヤ共同体の中でハブかれて、自分たちで世話をしなければならなかった背景事情があったと思われます。そうした中で、しかもヘレニストはヘブライストとの不公平感を訴えているのですから、これはユダヤ教の原則に淵源する、不当な差別問題で、見た目よりも、ずっと大きな案件なのです。規則は細かく多いのですが、とりあえず、わかりやすい申命記の一例を挙げておきます。
「寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない」(新共同訳 第二十四章第十七節)
この分裂の危機の事態に対して、ペテロが形ばかりの会議を開いて、彼らステパノらを専従に起用した、というよりも、これは調停者である宗団指導者としては、「ギリシャ語を話すユダヤ人=ヘレニスト」たちの不服を解消すべく、まかないその他を司る仕事を全てヘレニストたちに委ねることで、事を収めようとしたのだと思われます。かなりの政治的手腕です。
しかし、わざわざ、書記ルカがこの挿話を入れたのは、ただ漫然と事実を時系列的に述べた結果とは考えられない。おそらく、意図があるのです。ここはペテロの人心掌握術によって、この時は事なきを得るのですが、両者の間に齟齬が生じかけている、というのは、初期の教団とは異なる異分子をも取りこんで拡大する組織に、いつでもどこでも付きまとう摩擦のようなものが、すでにこの頃から胚胎していたのだ、と思われます。そして書記ルカが使徒行伝の裏面のテーマとして描きたかったことは、そうした拡大政策にともなう摩擦や困難を、いかに宗団指導者が解決していったか。また、それによって宗団の性格がどう変貌して、組織全体が大きくなっていったか。そういう歴史的変貌の変遷だったように私には感じとれます。
そして次がコルネリオの問題です。
それまで異邦人には宣教していなかったのですから、いかにペテロが筆頭使徒であろうとも、否、逆にそういう人だからこそ、彼が宣教先で勝手に、皆との事前の合議なしに、そういうことをして好いものか、ということが問題になったわけです。そうは記していませんが、ペテロはエルサレム教会で、一種の査問会にかけられ、そこで弁明することになります。使徒行伝では、
「さて、異邦人たちも神の言を受けいれたということが、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちに聞えてきた。そこでペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を重んじる者たちが彼をとがめて言った、
「あなたは、割礼のない人たちのところに行って、食事を共にしたということだが」。
そこでペテロは口を開いて、順序正しく説明して言った」(第十一章第一節から第四節)
あえて、直接的に、異邦人への宣教や、それを弟子にしたことではなく、婉曲的な話法により、弁明を求めていますが、それは一種の礼節なり先達への斟酌でしょう。しかし、問題が奈辺にあるかは、当のペテロが一番よく判っています。そこで、ペテロは幻視によってイエスの啓示を受けたことから説き起こして、幻象も伝え、これの意味するところは、神のご命令だと応えます。そして、
「人々はこれを聞いて黙ってしまった。それから神をさんびして、「それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」と言った」(第十一章第十八節)
――ということで、ペテロの行為は正当化され、そしてこれを前例として、異邦人への宣教も許された、ということが共通了解になります。
これは実に画期的なことで、サラッと読み飛ばしていては気がつきませんが、ここでナザレ派は、非常に大きな方針転換をしているのです。「人々が……黙ってしまった」という表現に、彼らの内面の動揺が表れているように思います。
もとよりペンテコステの異象によって始まった教団の「再生」でした。初期エルサレム教会にいる皆がみな、それを体験したわけではないにせよ、組織中枢の重だったメンバーは全員それを経験し、ナザレ派の「今、ここ」が在るのです。ペテロの受けた異象や幻視、主の啓示を否定したら、組織じたいの存続に関わります。しかもその行為は筆頭使徒のペテロによって執り行われたものです。否定のしようがありません。これがもしパウロで、彼が、そういう独断専行をした、となったら、もっと紛糾したでしょうが、ペテロが相手で、しかも理由が神による幻視となったら、もはや論争にすらならない。
ここで、教団は一歩、前人未踏の道へと、踏み出したのです。
私は漠然と夢想するのですが、おそらくペテロたち十二使徒だった人々は、現在の宗団を率いるリーダーですが、しかし自分たちの活動の先がどれほど遼遠であるか、そしてその先の先には何が待っているか、よく判っていなかったと思います。
言ってはなんですが、ペテロは所詮、ガリラヤ湖畔で漁をしていた漁師です。教養も学問もない。しかしパウロは違う。キリキヤの要衝、あまたの通商路が交差する国際都市タルソに生まれ、そこの大学を出ていたかも知れず、その大学に入っていなかったにせよ、エルサレムでパリサイ派の重鎮ラビ・ガマリエルの薫陶を受けている。ローマの市民権を持ち、知識人であり視野が広い。自由な空気とローマ帝国の版図の大きさを熟知しているのです。だとしたら、ひょっとすると、彼だけがイエスの教えを宣教していく先の先には、今の教団だか教会だか判らない小さな組織が、やがてもっと大きなテイクオフをする可能性を、やや想像的にでも判っていたかも知れない、と。
何の確証もないのですが、そんなことを思います。
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ともあれ、コルネリオの件が片付いた後、ステパノ事件による迫害で、各地に散った仲間たちは、ピニケ(フェニキア)、クプロ(キプロス)、アンティオキアなどに分散していましたが、中に数人のクプロ人とクレネ(キュレネ=現在のアフリカ北部)人がいて、アンティオキアに行ってからギリシャ語を話す人々(※注)にも呼びかけ、宣教していました。これらの土地はすべてユダヤ以外の異邦です。当然、ヘブライストはそこにはいない。ヘレニストだけだったでしょう。いわば、ペテロがカイザリヤでやったのと似たようなことを出先で勝手にやっていたわけです。しかもペテロの場合は神の啓示や幻象が有りましたが、彼らはそういう啓示なしでやり始めていたことになります。
※注)口語訳聖書では「ギリシャ人」となっていますが、新共同訳では「ギリシア語を話す人々」とキチンと訳されています。この違いは大きいので口語訳の不備が惜しまれるところです。
この話がエルサレム教会に伝わり、ペテロたちはバルナバをアンティオキアに使わし、ギリシャ語を話す人々にも宣教することを公式に追認したようです。使徒行伝には続けて、こうあります。
「こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。
そこでバルナバはサウロを捜しにタルソへ出かけて行き、彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった」(第十一章第二十四節から第二十六節)
同じ箇所の新共同訳では「クリスチャン」を「キリスト者」と訳しています。英希対訳サイトで見ると(※)、ギリシャ語の原語は「Christianous(翻字)」です。これが文献に残る、イエスの教えに従う者を、外部の非キリスト者がそう呼んだ最古の記録とされています。
※)https://biblehub.com/text/acts/11-26.htm
使徒行伝には、もう一箇所だけ、「クリスチャン」という用語があり、それはパウロが反対派から捕らえられてカイザリヤに軟禁されていた時、新任の総督フェストから、この案件をお前はエルサレムで裁判されることを望むか、と訊かれ、パウロは(そこが総督府であることから)「自分は今、カイザルの法廷に立っているのだからカイザルの法廷で裁かれるべきで、だからカイザルに上訴します」と応えた後、しばらくして、ヘロデ・アグリッパ王が総督に表敬訪問をした際に、興味を抱いてパウロと面会することになります。先代のアンティパスといい、ユダヤの王様は、なぜかイエスやナザレ派に関心を持つ傾向があるようです。
そこで、パウロは長広舌を振るって、自分の生い立ちから始め、イエスの教えに言及しますが、ローマ総督のフェストは彼のことを狂っている、と評し、ついでアグリッパ王に問うと、王は、
「アグリッパがパウロに言った、「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」」(第二十六章第二十八節)
――と応えて、また王はその場から退場した後で、パウロの人物を惜しむかのように、総督に「あの人は、カイザルに上訴していなかったら、ゆるされていたであろうに」と告げたと記しています。上記サイトでは原語は「Christianon(翻字)」となっています。
その場には他に誰もいないので、どうして書記ルカはこれらの事実を知ることが出来たのだろう、とか思うのは野暮でしょう。ただ、これを見ると、アグリッパの描写は、イエス誕生を畏れて嬰児殺しをしたヘロデ大王や洗者ヨハネを斬首したヘロデ・アンティパスとは異なる描き方がなされているようで、すこし奇妙に感じます。
というのも、これより前に、使徒行伝には、ヘロデ・アグリッパ王が、パリサイ派の関心を買おうとして、ナザレ派に圧迫の手を伸ばし、まず使徒ヨハネの兄弟ヤコブを斬殺した、という記述があるからです。ついでペテロも捕らえられたが、その場は都合よく、天使が獄卒を目眩ましにかけてペテロを牢獄から逃しています。その後、アグリッパ王は天使に撃たれて「虫にかまれて息が絶えた」と記されているのです。これは史実とは全く違います。そもそもエドム出身のユダヤの王が、神殿派カヤパの対抗勢力であるユダヤ教徒パリサイ派の関心を買う必然性が判りません。また死んだ時期も状況も異なります。
ヨセフスの「ユダヤ古代誌」によれば、祖父のヘロデ大王とは逆に(大王は暴虐な専制君主で、古代のスターリンのような人物として畏れられていました)、アグリッパ王は性格は穏やかで謙虚で信心深い人であったと記しています。意外に、三代目ともなるとエドム人にしては親ユダヤ派の王だったようです。が、ユダヤ人以外には評判が悪く、彼が死んだ際には総督府のあったカイザリヤやセバステの人々がそれを祝ったと記していますので、全くの善人だったとも思えない。
なお、セバステとは旧サマリアで、ヘロデ大王がアウグストゥス皇帝におもねってアウグストゥスのギリシャ名「セバストス」に因んだ都市名に改名した由です。今も、サバスティーヤと呼ばれるのはその名残です。北イスラエルの首都であり、滅亡した後、南のユダ王国から罪の人々と差別されたサマリアも、もはや名前もなくなってしまったわけですが、依然としてその地域に住む人々への差別感情はまだ残っていたようです。
いずれにせよ、どう転んでも異国出身のユダヤの王がナザレ派と親しむ余地はないので、アグリッパがパウロを惜しむようなこの場面とその発言には異和感があります。書記のルカも十二章では「虫にかまれて息絶えた」と天罰だ、ざまぁ、と言わんばかりに記しているのに、ここにきて、いきなりナザレ派に同情的な人物としてアグリッパ王を描くのも妙な話です。
この前段では、総督のフェストが、滞在していたアグリッパの要請に応えてパウロとの面会を設えるのですが、その際に「ローマに送るにせよ、書き送る確かなものが何もないので、アグリッパ王に取り調べをしてもらい、それを上書すべき材料としたい」などと言っています。そもそも前任からの引継ぎとはいえ、属州の総督の権限でローマ市民権をもつ人間を軟禁するのは不自然であるし、訴状が彼ら内部の宗教的イザコザならパウロを放免してやれば済む話ですから、総督の態度もおかしいのです。
と言うのも、ローマ市民権を持つ人間は、いかなる属州のローカルな法規にも捕らわれず、ただローマ法だけに規制を受ける特権があったからです。ここでパウロを訴えているのは、ユダヤの大祭司アナニヤであり、その地方独自のルールでローマ市民であるパウロを捕縛しようとしている。属州を統治する総督ならば、門前払いするのが当然の措置であり、そんな特権を持つ人間を二年間も軟禁する、というのは、明らかに違法です。バレたら総督の首が飛びかねない。そんな危険を冒してまで、わざわざ属州の地方の宗教の争い事などに関ずらって、総督がパウロの身柄を拘束するいわれがないのです。
後代になると、ローマ市民権は乱発されたので、いくぶん値打ちも下がりますが、これは紀元一世紀の話ですから、まだローマ市民権は厳密に守られていたはずで、だとしたら、地方の法令でその身柄を拘引したり出来るはずがない。ローマ市民は、たとえローマにおいてさえ、ローマへの反逆罪とかでない限り、拷問や鞭打ちもされなかった。これは紀元前二世紀の法令で決められています。実際に、パウロは自分がローマ市民権を持つ人間だ、と言うことで、鞭打ちを逃れています。そもそも、彼が逮捕される契機となった同書第二十一章のエルサレムでの騒擾の際、千卒長が彼を鞭打って白状させようとすると、パウロがそう抗弁したので部下が千卒長に意見具申して、処置の変更を求めています。その時、彼らはパウロを縄で縛ったことすら畏れていました。
そもそも、なぜパウロが捕縛されるようなことになったか、というと、彼は伝道旅行の途中、エルサレムに立ち寄り、その地の人々に会うため七日間留まっているのですが、七日目に小アジア出身のユダヤ人がパウロを見かけて群衆を扇動し、「この男は異国のギリシャ人を神殿の内庭に連れこみ、神殿を穢した」と訴えたからです。当時、エルサレムの神殿の外庭までしか、異邦人は入ることが出来なかったのですが、とっさに別な人間と誤認したのか、意図的なのか、よく判りませんが、そう言って民衆を扇動し、千卒長による捕縛という仕儀になります。
一説には、使徒行伝の後に位置するロマ書簡で言及されている「エルサレムへの献金」問題が絡んでいる、とも言われていて、それは判然としないのですが、パウロは、ひょっとしたら異邦人をナザレ派に迎え入れるデモンストレーションとして、わざとギリシャ人を宮内に連れていったのだ、とする異見もあります。私にはよく判りません。パウロ書簡が、パウロ直筆なのか、それにも書記ルカが関わっているか不明なのです。どちらにせよ、ルカは使徒行伝においては、この異邦人が「エルサレムへ献金」する案件については、全く触れていません。
いずれにせよ、どういう理由であれ、ローマ市民であるパウロを、エルサレムの神殿を涜神した、というユダヤ教徒だけのローカルルールで捕縛するのは、ローマ市民権には抵触します。その場は、パウロの機知により、千卒長を味方につけて、ヘブライ語で演説することで騒擾はおさまり、祭司長らは彼をサンヘドリンへと召喚します。
その後、彼らはパウロをもっと詳しく取り調べするために移送し、そこで殺そうと謀るのですが、パウロの甥だかがそれを聞きつけ、千卒長に訴えたため、この計画は頓挫し、彼はパウロをカイザリアへと重武装した一軍に護衛させて総督府へと送るのです。現場の判断では、これ以上、放置しておくとパウロが危うい。だが自分のお膝元でローマ市民が殺される、といった事態は避けたい。それで総督に案件を預けた格好です。しかし、その総督にしても、ローマ市民のパウロをどうこう出来る立場にはありません。
たかがシリア属州の総督が、ユダヤ教の宗教指導者の訴えにより、パウロの身を抑えておく、というのは越権行為も甚だしい。イエスのようにローマへの反逆を策んだ、とか架空の構罪でも作れば別ですが、大祭司アナニヤはそうは言っていません。パウロの晩年における、彼の処遇は、明らかに異例であり、変なのです。私には、このパウロがカイザリアに幽閉されている、という挿話自体、疑わしく思えます。ローマ市民を持つ、と言っただけで、属州のたいていの人々は平伏して当然の社会だったのですから(もっとも、パウロはいつもこのローマ市民の権威を振りかざしていたわけではありません。同書第十六章のピリピでの出来事では、その町の長官に捕らわれて鞭打たれているが、これといった抗弁はしていません。この時は、パウロと同僚のシラスが囚われた獄舎が地震で破壊され、パウロたちは自由になるのですが、長官らは彼らをこっそり釈放しようとすると、パウロがそれを止め、長官自らが謝罪すべきだと言って、堂々と出て行っています)。
私が想像するに、これは書記ルカが、なんとかしてパウロをローマに送らねばならないための、粉飾による作為ではないか、と思われます。ローマの総督としては、あまりにも、この挿話の前後の行為はチグハグで、およそ職能の権限を越えたことをやっているとしか、言いようがないからです。創作としか思えない挿話を重ねているし(新総督をヘロデ王が表敬訪問したまでは、聞き及べば判るでしょうが、そこで何が起きたか、その中でどういう会話があったかなど、パウロにも、ましてやルカに判るわけがありません)、不自然なことが多すぎるのです。
ルカはローマで獄中のパウロから聞き取りをした、と伝承にはありますから、パウロが直接関わったことなら、いくらでも「真実」として語れるでしょうが、パウロが離れた席上でヘロデ王と総督の間での会話など、創作しなければ有りえない話です。それも、自らの筆で悪しざまに描いていた王がパウロの人物を惜しむような台辞はいくらなんでも捏造の度がすぎます。なにか他の理由がないと、ここまで描く必要はない。
この後、パウロは航路、ローマに送致されますが、これが大荒れの航海で、何度死んでも不思議ではないような船旅の挙げ句にローマにたどり着きます。ローマでは軟禁状態に置かれ、しかし人が訪れるのでそこで宣教した、と記され使徒行伝は終わります。伝承によれば一時的に釈放されたともありますが、それには触れていません。
書記ルカは、当然、パウロの最期の様子を知っていたはずですが、それについては何も記していない。伝承によれば、ペテロもパウロも皇帝ネロの迫害で殉教していますが、書記ルカがもし使徒行伝の中で、パウロについて、あるいは二人の末期についてキチンと記しておけば伝承が発生する余地はなかったでしょう。なぜルカが特に自分の師であるパウロの死について記述しなかったのかは不明です。
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少し個人的な話をしますが、高校時代、使徒行伝を読んでいて、当時、私が不思議に思っていたことがあります。
それは、使徒行伝は、書記ルカがルカ書に続いて、テオピロ(テオフィル=神に愛されし人の意)に宛てて書いた文書の体裁を取っているので、出だしは、
「テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして……(The first book I wrote, Theophilus,)」
――とあり、一人称単数なのは当然なのですが、ペテロとパウロの業績に関しては、徹底して三人称で描いています。つまり主語は「彼/ら(He/They)」なのです。まあ、これも客観描写とすれば判ります。ところが、文書中、突然、「わたしたち」という一人称複数の人称に記述が変わるのです。それも、三箇所で。その後、しばらく「わたしたち」が続きます。そしてまた、ある時点から三人称に戻る。なんとも奇妙な叙述法で、これは日本語訳で見ていても唐突で、読んでいると、かなりの異和感をおぼえました。三人称の箇所は客観描写ですが、一人称複数の箇所は、当たり前ですが、非常に主観的で、地中海の海風を感じさせる明るさがあります。それくらい文体による変化は大きいのです。
私は昔からSFのみならずミステリのファンでもありましたから、人称の変化には敏感なのですが、普通の人が読んでも、これは可怪しい、と思う範囲でしょう(本格ミステリの多くは「神の視点」による三人称で描かれるのが常ですが、これは融通無碍な人称でもあり、やろうと思えばいくらでもアンフェアな描写が可能なので厳密なルールがあるのです)。
現代ミステリはともかく、二〇〇〇年前のルカ文書はレトリックを駆使した綿密な構成になっていますから、特別な理由もなく、このようなナラティヴの変化をしているとは思えません。何か理由があるはずです。高校時代の私は他のツールも解説書もなしに聖書を読んでいましたから、その理由が判りませんでした。聖書の先生に訊けば教えてくれたと(今では)思いますが、当時の私は、不眠症から不安神経症を併発し、孤独に聖書を読んでいたので、そういうこともしなかったのです。
「一人称複数」叙述の箇所の出だしは次の三つです(人称は日本語だけでは判りづらいので英訳も付します)。
「そこで、わたしたちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた(We set sail from Troas, making a straight run for Samothrace, and on the next day to Neapolis)」(第十六章第十一節)
「この人たちは先発して、トロアスでわたしたちを待っていた。わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した(But these had gone ahead, and were waiting for us at Troas. We sailed away from Philippi after the days of Unleavened Bread, and came to them at Troas in five days, where we stayed seven days)」(第二十章第五節から第六節)
「さて、わたしたちが、舟でイタリヤに行くことが決まった時、パウロとそのほか数人の囚人とは、近衛隊の百卒長ユリアスに託された(When it was decided that we should sail to Italy, they handed Paul and some other prisoners over to a centurion named Julius of the Cohort Augusta)」(第二十七章第一節)
以上の三箇所になります。全部、トロアスにいた「わたしたち」から始まっています。
「除酵祭」とは「過越祭」と同じです。酵母を入れないパンを食べるので、この名があります。大体、三月末から四月始めに当たります。あと「近衛隊」とはまた古めかしい訳語ですが、今の新共同訳では「皇帝直属部隊」になっています。戦前の大日本帝国陸軍では、天皇を直接警護する近衛師団がありましたから、その名残でしょうが、さすがに今の時代には合わないので、新共同訳の方が良いとは思います。
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さて、高校生の私が可怪しく感じたくらいですから、この妙な暗合はさすがに、古くから論議されていたようで、学術的には「我ら資料」と呼ばれているそうです。おそらくは、ここから書記ルカ自身も、この伝道旅行に同行したので、そう書かれているのであろう、と言われています。私も、後になって解説を読んで了解しました。ただし、なぜか書記ルカは書記に徹していて、そうは記していません。つまり、この「我ら資料」箇所で、自分もパウロに同行した、とは一行も書いていないのです。あくまで背後にいて、黒子役です。
この箇所への解釈は、もう一つあって、その説では、ここトロアスが特別な土地で、ここでルカは最初にパウロと出会い、イエスの教えに帰依してナザレ派になったからだ、とも言われています。むろん確たる証拠は何もありません。ルカもどこにもパウロと知り合ったかは記していないので、伝承にすぎない。この書からキリスト教が発展したと言っても過言ではない文書に、その書記は正体を徹底した修辞学で秘している。なんとも理解に苦しむ話です。
上記の「この人たち」は先発隊として、その直前の節には全員名前が書かれているのですが、書記ルカだけは「わたしたち」の中にいて、名さえ記述されてもいない。奇妙な隠蔽です。
ヨハネ書の書記も、自分の存在を消すのに、ボルヘスの作品の倒叙法を援用した、ひどく手の込んだ隠蔽をしていましたが、ルカ文書のこの身の消し方も謎です。なぜに、それほど自分の存在を匿すのでしょうか。パウロの弟子なら、同行したと記しても、誰も文句は言わないはずです。不可解な記述だとしか、言いようがありません。どうも福音書の書記は自分自身を顕すのを控える、というか、自己韜晦する傾向があるようです。では、トロアスとはどういう土地なのでしょうか。
トロアス(Troas)は、小アジアの地名で、現在のトルコはアナトリア半島の北西部の古い呼称でした。シュリーマンが発掘したトロイア遺跡をふくむ州です。世界地図を見ると、アナトリア半島の対岸がギリシャ地方になります。伝承によればルカはシリア・アンティオキア生まれですが、この「我ら資料」に基づき、当時はトロアスに住んでいたのではないか、と説明する学者もいます。むろん、何の証拠もありません。
その当否はともかく、「我ら資料」の再帰的な規則性は、パウロたちがトロアスに到着した時に始まり、しばらく「わたしたち」人称での記述がつづき、ふたたびパウロらがトロアスに戻ると、三人称の記述になります。トロアスに何か解明の糸口があるのか、と勘ぐる向きもありますが、これといって聖書的に何かがあるわけではないようです。単なる区切りなのでしょう。
伝承では、ルカはギリシャのテーバイにて八四歳で没し、生涯独身だったとありますが、特にトロアスとの関連性を示唆する事実は(少なくとも)新約聖書内にはありません。たまたま、当時、トロアスに住んでいたから、そう記述した、という説明は、いくらなんでも可怪しいでしょう。それこそ、そこでパウロから宣教され、受洗した、という事実でもない限り、トロアスの特権性は説明がつかないし、かといって、そうした史実もないなら、一体ルカは何を考えて、この記述の人称の変化を付けたのか。いまだに学術的には解明されていません。
しかしながら、この様式美的な文章の転変は、単なるレトリックではなく、もっと別なことを物語っているのではないか、とも思われます。すなわち、使徒行伝では、段階的に、しかも各段階では飛躍的に宣教する対象が広がっています。イエスが率いた原始キリスト教団時代と同じ十二使徒が牽引しているペトロ時代、そして生前のイエスには一度も会ったことがないパウロが幻視によってイエスの啓示を受けてからのパウロの最初の時代、さらには、パウロがローマに赴く、おそらく死を前にした彼の最後の時代。イエスの刑死が紀元三〇年で、パウロが殉教したとされるのが六七年前後ですから、その間、ザッと三十数年ですが、実際にパウロの三回の伝道旅行に限定すると、約二十年ほどです。そして「使徒」パウロとして多くの書簡を書いて、中央と地方の意見調節を図り、宗団指導者として大きな貢献をしているのですが、一番大きな改革も、大体、パウロの時代にやっています。書記ルカが、使徒行伝で本当に言いたかったのは、そのパウロの功績ではなかったか。
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使徒行伝の末尾は、
「わたしたちがローマに着いた後、パウロは、ひとりの番兵をつけられ、ひとりで住むことを許された。
三日たってから、パウロは、重立ったユダヤ人たちを招いた」(第二十八章第十六節から第十七節)
そして次のように終わります。
「そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。
〔パウロがこれらのことを述べ終ると、ユダヤ人らは、互に論じ合いながら帰って行った。〕
パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた」(第二十八章第二十八節から第三十一節 〔 〕内は底本になかった箇所の異本による補完箇所)
つまり、書記ルカはこう言いたかったのではないでしょうか。
ペテロの時代には、彼は「ギリシャ語を話すユダヤ人」にまで宣教を拡大した。
パウロ初期の時代には、「イエスの啓示を受けた異邦人」にまで宣教を拡大した。
パウロ最後の時代には、ついに何の制約もなく「異邦人」にまで宣教を拡大したのだ、と。
学問的には、これはエルサレム教会で行われた会議で、時を追うごとに拡大していく宣教の対象者の広がりを示しています。先述したようにイエスの啓示を受けて、最初に「ギリシャ語を話す人々」へ宣教を始めたのはペテロです。ペテロはエルサレムに戻った際に、そのことについて弁明を求められ、幻象と啓示について語ったので、ヘレニストへの宣教が公認されたわけですが、それを出先で勝手にやっている兄弟たちがいるので、使いとして各地に赴き、意志統一を図ったのは、バルナバや盟友のパウロです。つまり時代的にはパウロ世代です。
エルサレム教会は、イエスの兄弟ヤコブが総主教を務め、各地で起きた問題や紛糾を調停していますが、原始キリスト教団の時代から考えると、驚くほど短期間に宣教範囲を拡げています。異邦人にまで弘めているのは、拡大政策の結果なのか、それが原因なのか、どちらが卵でどちらが鳥なのかは定かではありませんが、結果として、従来のユダヤ教では想像もつかない宣教活動を行っている。そこには当然、摩擦や軋轢もあったでしょう(だからこそ紛糾した)。さしたる業績も記されているわけでもないヤコブですが、イエスの兄弟という名の下に、調停能力は優れていたようで、彼の人柄もあって、こうした拡大政策は、ナザレ派の全員の共有されていきます。
しかし、軋轢はなお、あります。当然のことで、ナザレ派は当初、イエスとその原始キリスト教団がそうであったように、民俗宗教ユダヤ教の改革派だっただけです。つまり宣教対象はヘブライ語=アラム語を話す(ユダヤ地方の)ユダヤ人だけであった。ガリラヤの「罪の人々」を対象にしてさえ、それはなお、ユダヤ人(割礼を受けた人)であったのです。
それが、イエスの啓示があったとはいえ、まずペテロによって、「ギリシャ語を話すユダヤ人=ヘレニスト」に拡大され、ついにはパウロによって、ユダヤ人ではない異邦人、すなわち「割礼なき人々=ユダヤ人以外の異邦人」にまで宣教は拡大していくのですから、初期の信者にとって、その抵抗感は相当なものだったでしょう。いくら改革派とはいえ、元々はユダヤ教の熱心な信者なのですから、それがイエスの啓示があるとはいえ、ヘレニストやましてや異邦人にまで宣教拡大していくのを座して見るのは、あまり面白くないはずです。この間に離反していった古い信者も多かったのではないか、と想像してしまいます。
ヤコブはエルサレムというユダヤの中心である聖都で、ナザレ派の教会を牧していますが、宣教者はシリアや小アジアといった、いわば辺境の最前線で戦っている。当然ながら、その意識はかなり違う。ユダヤ教の改革派が、ユダヤ人以外にも教えを弘めるとなったら、それはもう、ユダヤ教と言えるものなのか。パウロには、おそらく、そういう企図があったとはいえ、世界宗教へのテイクオフに等しい、そういう飛躍的拡大を、前線部隊は現場から求めているのです。エルサレムに残った人々は、おそらく生粋のユダヤ人ナザレ派が多かっただろうことが推察されますので、その調停は大変な労苦だったでしょう。ヤコブは後方の司令部にいながら前線の気持ちをくみ取って、よくやったと思われます。業績云々はともあれ、やはり調停能力ならびに人徳があったのでしょう。イエスの兄弟が、ああいうのなら、仕方がない、と思わせるだけの器があって、そうなっていったと思われます。
実際、当初パウロと宣教旅行した、筆頭使徒のペテロですら、「割礼なき人々」の扱いには、ずいぶん遠慮しているのです。
ある時期には、異邦人でも割礼を受ければ、ユダヤ教に改宗したと見なされ、ナザレ派に帰依することが許されていたらしいのですが、ある人たちが「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と説いて回ったことで、パウロたちと彼らとの間の総論が起きて、問題がこじれました。これは中央の教会で統一見解を出すべき問題だったのでペテロたちはエルサレムに登り、使徒や長老たちと協議しました。パリサイ派からナザレ派の信仰に入ってきた人たちは「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」と主張し、パウロらと意見が合いません。激論が交わされました。
その結果、ペテロが立って、今までの過程を述べて皆を鎮めたあと、こう言ったのです。
「そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい」(第十五章第十九節から第二十節)
そう言って、ペテロはパウロやバルナバ他に人を選んで、アンティオキア、シリア、キリキヤの各地に書面を送ります。すなわち、異邦人にも宣教して好い、帰依した異邦人はユダヤ人がそうであるごとく割礼を受けることはない。そういう結論です。この議決がいつ頃の出来事なのか、よく判っていないのですが、大体、イエスの死後、つまり紀元三〇年から算えて、一五年から二五年の間くらいではないか、と言われています。もっとも最有力説は何故か紀元四八年です。どうしてそう算出されるのかは、私には判りませんが、とにかくイエス時代からパウロの宣教の拡大まで、最大でも四半世紀は必要だったのだ、と思われます。このエルサレム議決で、ついに異邦人(割礼なき人々)にも宣教して好いことになりました。
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しかしながら、実際には、このしばらく後で、ペテロは宣教の旅に出るに際して、協力者として弟子を連れていこうとしたのですが、ルステラ(リストラ=今のトルコ、コンヤ近く)に着いて、
「そこにテモテという名の弟子がいた。信者のユダヤ婦人を母とし、ギリシヤ人を父としており、ルステラとイコニオムの兄弟たちの間で、評判のよい人物であった。パウロはこのテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、まず彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることは、みんな知っていたからである」(第十六章第一節から第三節)
すなわち口ではああ言っておきながら、実際の宣教活動には、同行する弟子には割礼を施している。ダブルスタンダードです。こうしたペテロの惰弱で首尾一貫していない姿勢は、一徹なパウロには我慢がならなかったらしく、ガラテア書簡でパウロが大先達のペテロを、しかも公衆の面前で論難したことが記されています。割礼の件ではないのですが、まず、パウロは自分の弟子の話から説き起こします。
「しかし、わたしが連れていたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼をしいられなかった」(第二章第一節)
そして、
「ところが、ケパ(=ペテロ)がアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」」(第二章第十一節から第十四節)
――とあります。
おそらく、ペテロは困ったと思いますが、エルサレム教会で統一見解を出して、書簡を各地の拠点に送っている以上、非はペテロにありますから、言い返せなかったでしょう。ナザレ派には、むろん年長者を敬う礼節はあったと思いますが、これはそういう問題ではありません。言っても新参者の使徒であるパウロが、生前のイエスに指名された第一の使徒ペテロを衆人環視の中で正論を唱え、なじっても致し方ないことです。原理原則からすれば、これはパウロの理があります。
パウロのこうした過激さは、性分もあるでしょうが、ウィキペディア日本語版の「パウロ」の項目に、
「パウロはユダヤ教時代から、分派を嫌った。イエスはユダヤ教に言われるところのキリストだとする集団を迫害したのも、ユダヤ教の中の一派としての異端を排除しようとした行為である。後世においてキリスト教が国教化された後にも継承されてゆく分派、異端排斥は、ナザレのイエスが分派・異端を仲間として容認したこととは、大きく異なっている。イエスの啓示を受けたとされた後でも、その排他性・異端排斥性に変化はなかった。異邦人への伝道をするようになっても、党派心、分裂、分派を為す者は神の国を受け継ぐことはないと説いている。そして、自らの異邦人への伝道を「キリストの福音」であるとして、キリストの福音を変質しようとする者に対して呪いの言葉を記している」
――とあります。パウロが個人的に分派活動を嫌っていた、というのは、具体的にはパウロ書簡の文言を指してのことだと思われますが、明示的にどこなのか判りません。しいて上げれば後述するコリント書のような箇所かとも思われますが、これをして分派活動を嫌った、とは言い過ぎであるような気がします。
新約全体で「分派」という用語が使われている箇所は、口語訳では、パウロ書簡に二箇所、新共同訳では、使徒行伝に三箇所、新改訳では、書簡に三箇所ありますが、口語訳で、
「まず、あなたがたが教会に集まる時、お互の間に分争があることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、それを信じている。たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、【分派】もなければなるまい」(コリント一 第十一章第十八節から第十九節 新共同訳では【仲間争い】)
「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、【分派】、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない」(ガラテヤ書 第五章第二十節から第二十一節 新共同訳では【仲間争い】)
――とあるのは、これは一般論でしょう。コリント書のそれは明白な「分争」への咎め立てだし、ガラテヤ書は数多くの悪徳の一つにすぎない。
新共同訳で、「分派」という用語は、すべて「ユダヤ教ナザレ派」すなわちパウロに対して言われた批判であり、パウロの口にした他人への批判ではありません。以下です。
「実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の【分派】』の主謀者であります」(第二十四章第五節 口語訳では【異端】)
「しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『【分派】』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています」(第二十四章第二十一節 口語訳では【異端】)
「あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この【分派】については、至るところで反対があることを耳にしているのです」(第二十八章第二十二節 口語訳では【宗派】)
新改訳で、三つある内の二箇所はコリント書とガラテヤ書で上述のと同一ですし、他の一つはテトス書簡で、
「【分派】を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい」(第三章第十節 口語訳では【異端者】、新共同訳では【分裂を引き起こす人】)
――で、これだけはそれらしく思えますが、テトス書は高等批評でパウロの真筆性が疑われており、二世紀初等成立の偽書だとされています。要するに、パウロの口や筆でことさらに「分派」を否定している文書は新約には見当たらないのです。
これでは、(本来、ウィキペディアで禁じられている)独自研究だと言われても仕方ないように見えます。
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ただし、イエスが分派・異端を仲間として容認したことと、初期キリスト教会の異端排斥とが、まったく異なる次元のものである、という意見には賛同します。しかし、外部から見ると、わけの判らない公会議での異端排斥も、おそらくその時代には、それなりの理由があったのだろう、という解釈もあります。一例を挙げれば、「三位一体」を公会議では「正統」と見なしましたが、これはたまたま第一回ニカイア会議(紀元三二五年)から第一回コンスタンティノポリス会議(紀元三八一年)までの間に議論されて「正統」だとされたから、そうなっただけで、同じニカイア会議で異端とされた(しかし当時は優勢だった)「アリウス派」や、エフェソ公会議(紀元四三一年)で「ニカイア信条(クレド)」を正統とし、「ネストリウス派」を異端として排斥された歴史などを見ると、公会議の恣意性に驚かされます。ネストリウス派は、後に東漸して、教圏を最終的には中国にまで広げ、「景教」となっています。
しかしながら、公会議における異端の審査は、細かく調べていくと、そうなるにはそうなるだけの理由や背景があったことが判ります。もともと宗教会議などは、外部から見れば、訳が判らないので、結果だけ見ると、おかしなことをやっている、としか思えないだけで、モノゴトにはそうなる理由や経緯があるものです。一概にはいえません。ただ、異端として本来仲間だった者を排斥していく力学は、唯一神に特有の非寛容性ではないし(イスラムは寛容的です)、キリスト教特有のものだとしか言いようがないので、この不思議なキリスト教の性格は、ユダヤ教から輸入されたものなのか、とも思わないではありません。それはしかし、パウロ的な性格ではないでしょう。
私などは、パウロという人は、ただただ端的に「筋の通らないことが嫌いな」非常に頑なな人だったように思われます。
これは、私自身が、幾分、そういう傾向がある人間なので、なんとなく判るのですが、相手がペテロだろうが誰だろうが、間違った言動があったら直言して、正論で真っ向微塵に批判する。理非曲直が全てである。という生き方は、もはや思想というよりも性格です。一つの原理原則を定めたら、あくまでもそれを遵守する。それ以外の人間の情や、啓示以外の誤った福音はみな間違っている、と糺していく。そんな自分にも他人にも厳しい直情型の人間像が思い浮かびます。味方に付けたら頼もしいが、あまり親友ではいたくない。といった人物というか。
コリント書簡一は、パウロ書簡と呼ばれる四つの文書の一つであり、ガラテヤ書簡と並んでパウロの真筆性が高いと高等批評でも保証されたものですが、コリントにおける共同体でのモメ事を憂いて書かれた書簡です。当たり前ですが、ローマ時代には郵便制度はないため、手紙は旅行者に言づてて運ぶしかありませんでした。この時、パウロはエフェソ(エフェソス)という現トルコのイズミールの町にいて、コリントは対岸のギリシャ、ペロポネソス地方の町です。地図で見ると海路で直接距離にして四〇〇キロほど距てています。東浩紀氏に「郵便的不安」という哲学的用語がありますが、それは今の郵便制度での言葉であって、当時は手紙なんか、果たして届くかどうか全く判らないほどの距離です。しかしパウロはその距離を超えて叱咤するのです。そこには、
「わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか」(第一章十一節から第十三節)
――と、かなり激越な口調で、(もし本当にあったとしても)エルサレム教会内の十二使徒の派閥抗争に与せず、信仰によって一致してもらいたい、ということを訴えています。言葉は厳しいですが、これらはむしろ宥和の精神であって、分派=異端排斥とは言えないでしょう。
同じく、ガラテア書簡には、
「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」(第三章第二十六節から第二十八節)
――と、神(の子)の前には、人間は全て平等である、というパウロの信念が語られています。
二千年も前に生きた人間を掘り下げるのは難しい作業です。さらに浅学非才な私には、新約聖書という迷宮的書物の中で彷徨うしかないのですが、しかし、パウロという、一見、矛盾に満ちたイエス時代より後の使徒の生き方や生涯、その意味などが、少しでも伝わったなら幸いに思います。
また宗教的に不信心という以前に人間的にも、いまだ未熟な私ですが、パウロという、おそらくはキリスト教を、否、まだそれが形をなさなかった時期に、その原型を形作った人がいて、何十年もかけて、宣教のための一大伝道旅行をなしとげ、その過程で徐々に宣教の対象(つまりはイエスの教えを与える人)を拡大していった。そういうことが理解されれば、と思っています。
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