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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓


   第十一講  モーセ

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文庫版の第九章「さらに日本教徒について――(その三)是非なき関係と水くさい関係――」には、

「一方、旧約聖書には、「イスラエルはヤハウェを自分の神とした」とはっきり書かれているが、日本人キリスト教徒はこの言葉を口にしたがらない。これは「養子にされ、養子になった」ということなのだが、おそらく日本人の神概念と、根本的に相いれぬ点があるからであろう。(中略)
なぜこのようになったか、神学者や歴史家はいろいろと深遠な解釈を下すであろう。だが非常に簡単に考えれば、それはユダヤ教の始祖モーセにある。モーセの一生は養子である。端的にいえば彼は捨て児で、ファラオの娘に育てられ、長ずるに及んで自分がヘブル人であることを自覚し、横暴なエジプト人の監督を殺したゆえにミデアンの地(シナイ)に逃れ、ここで、ミデアン人の祭司エテロの養子となった。多くの学者は、ヤハウェはがんらいはミデアンの部族神で、ヤハとは、暴風もしくは雷をあらわす言葉だという。一言にしていえば「風雷神」であろう。エテロの養子になったということは、言うまでもなく、ヤハの養子になったということである。そして彼はエジプトに帰り、イスラエルびとの全員をひきつれて、またシナイに戻ったとき、モーセはシナイ山にのぼってこの神と契約をした。有名なモーセの十戒には何と書かれているか「汝、われのほか、何ものをも神とすべからず」と。この言葉は何を意味するのか。これは養子縁組の根本条件である。すなわち今日から「お前は、おれのほか、絶対にだれも父親としてはならない」ということと同じであって、これが破られればすべての関係は無になる。その瞬間、父親は赤の他人となるのと等しく、ヤハウェは赤の他神(?)となってしまうのである」(一四七頁から一四八頁)

――とあります。

モーセの十戒は、そういう題名の映画でも有名ですし、そこで紅海を真っ二つにしてユダヤの民を逃がし、追いすがるエジプト軍勢を波に呑みこませて追っ手を食い止めたシーンは、たとえ映画を未見の人にも、おおまかに共有されている知識だと思われます。人によっては、これに啓発された「大魔神」を想起される方もいるかも知れません。どっちにせよ、そんな「奇跡」を歴史的事実だと思う人は、まず、いないでしょう。私は、セシル・B・デミル監督、チャールトン・ヘストン主役の映画(五六年製作、日本公開は五八年)を、多分六八年のリバイバル上映で見ましたが、紅海真っ二つの映像など、今でも、わりと明確に記憶しています。特撮技術がまだ未熟だった、五〇年代の映画にしては、相当な迫力でした(※1)。

※注1)YouTubeにその箇所だけのビデオクリップがあります。https://www.youtube.com/watch?v=OqCTq3EeDcY

しかしながら、モーセが一体何者であったか、ということについては、おそらく詳しく知っている人は殆どいないと思われます。正直、私だって、今にいたるも、よく判らないくらいです(調べれば調べるほど、判らなくなります)。
しかし、ここで明示的に記されている重要な点が二つあります。

1)ユダヤ教を創始したのはモーセである。
2)ユダヤ教は「養子縁組」の神と民の関係にあり、それは創始者モーセに由来する。

これらの事実は、ごく普通の聖書の解説本などには、まず滅多に書かれていません。「えっ、そうなの!?」と思う人も多いはずです。当たり前の話ですが、キリスト教だって、ユダヤ教から派生したわけですから、同じことが言えます(少なくとも、同一の旧約聖書を使っている)。つまり、おそらく日本人のクリスチャンの多くは、そうは思っていないだろうが、上記の二点は、ユダヤ教もキリスト教も同じことが言えるはずです。それを自覚的に認めて信仰している人がどれほどいるか、私はよく知りませんが、あまり多くはないのではないでしょうか。

とにかく、この二つの重要な点は全てモーセに由来していることは、おわかりだと思います。これは、ちょっと大変なことです。たぶん、いや、きっと大勢の人々がここは軽く読み飛ばしているのではないか。私はそう思っているのですが、クリスチャンにとっても、これは非常に驚くべき問題ではないかと思われます。そして、さらに重要なことは、このユダヤ教の「創始」に関わっているモーセという人の正体が、よく判っていないのです。紅海真っ二つ以外に、私たちはモーセの何を知っているのか。まるで判りません。

以下は、それゆえ、私に判っている範囲で、モーセという人物像ならびに彼がユダヤ教(ユダヤ人)を「創り上げた」ことについて迫っていきたい、と思います。


まず、ザックリと輪郭を素描しておきます。
モーセは旧約聖書の「出エジプト記」に主役として登場します。
「出エジプト記」は、いわゆる「モーセ五書」(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の二番目の書です。「創世記」は、神がどう世界を創ったか、とかノアの方舟とか、いわばユダヤ教にとっての神話・伝説の領域の出来事を記しています。そしてモーセの名は、主たる活躍は出エジプト記ですが、その他の三つの書にも出てきます。創世記における、アブラハムからその子イサク、またその子ヤコブからヨセフへの四代にわたる家父長物語は、幾多の苦難をのりこえて一つの家族が最終的には幸福に集う、という麗しき、いってみればユダヤ教徒にとっての理想の親子像、大家族像とも言えます。しかし、あくまでもこれらは伝説でしょう。聖書考古学的にも、彼らの名前が他の地域の史書にないことから、それを実証できない、としています。
しかしながら、モーセの物語は、いわゆるユダヤ教の「律法」と分かちがたく記されているため、単なる伝承・物語としては、把えられない側面があります。そこに記された出来事が史実か否かは別として、同時に記された神との「契約」、それにともなう「ユダヤ教徒の掟」としての「律法」(ユダヤ教信徒が一点一画おろそかにせず守るべき宗教的規範)の問題が不即不離につらなっているのです。後者は現代のユダヤ教徒も遵守している「法」ですから、モーセの実在の有無、彼に与る出来事の当否と無関係に、今も有効であり、だとしたら文書全体をないがしろには出来ません。
私はキリスト教徒ではありませんが、この講読の立場として、史的イエスが実在した、という前提に立っています。同様に、ここではモーセもまた実在した、という前提で講読を続けます。よろしくご了解ください。

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モーセ五書は、複数の原資料があるとされ、大きくJ(ヤハウィスト)資料とE(エロヒスト)資料に分かれ、これは前者は「神」のことをヤハウェ(Yahweh)と呼び、後者はエロヒム(Elohim)と呼ぶことに起因します。それ以外にも、D(申命記=Deuteronomy)資料やP(祭司=Priestly)資料があると言われており、それら四つの資料を元にしてモーセ五書が編纂された、というのが一世紀以上「定説」だったものです。これを「文書仮説(Documentary hypothesis)」と言います。このゆえに、モーセ五書には、たがいに重複したり矛盾したりする箇所がいくつもあるのですが、編纂の際には、それらの瑕疵は無視されて、今の形のままになっています(※注)。

※注)たとえば、創世記第一章第二十六節ではP資料を基に「全能者である神[エロヒム]は自らにかたどって人間を創造した」とあり、第二章第四節では、J資料を基に「主なる神[ヤハウェ]が天と地を作ったとき」とあります。こうした神名に明白な違いのある、しかも互いに矛盾した内容が見られる文章でさえ、まとまりもなく、モーセ五書に散らばっているのです。
ここでいう「祭司」とはバビロン捕囚の際、祖国を失なったユダヤ民族がアイデンティティを喪失しそうな危機に直面した時に、祭司記者と呼ばれる人々がバビロニア神話に対抗して独自のヘブライ神話を創りだし、その危機を回避したもの、と考えられています。すなわち創世記に始まるモーセ五書とは、単純な民族神話や伝承をまとめた古文書ではなく、捕囚時代の知識人たる祭司記者が、民族としての存亡の危機を乗り切るために作りだした神学的創作物なのです。

これ以上は、当該項目とは関係ありませんので省きますが、旧約とは、もともとそういう策みの書だった、ということを憶えておいて下さい。新約も四人の福音書の書記が、共通する原資料(Q資料やロギア)をもとに、相互に相い矛盾した記述をしていたにも関わらず、初期キリスト教会は、その矛盾をただせず、「あるがまま」に編纂しました。聖なる策みの書とは、そうしたものかも知れない。時がたつにつれて、文書そのものの価値が高まり、誰も手が着けられなくなるのです。あとは、後代の私たちが、その暗号を解き明かすしかありません。

さて、ここで面倒なのは、創世記はわりと単純に神話の構造を持っているのに、出エジプト記にはじまるモーセの活動は、そのままレビ記、民数記、申命記の全四書にも跨がり、前述したように、十戒をはじめとして、それぞれに神との契約として物凄く細かい律法が定められていく過程と並行して語られることです。いったい物語を語りたいのか律法を記したいのか、どっちが主体なのか判らないほど錯綜しています。モーセ(と民)の物語としては、だから出エジプト記から申命記まで連なっています。

文書仮説では、J資料は紀元前九五〇年頃、ソロモン時代に書かれ、E資料は紀元前9世紀後半に北イスラエル王国で書かれた。そしてD資料は紀元前7世紀のユダ王国のヨシヤ王による申命記改革の時に書かれ、P資料は紀元前5世紀のエズラ時代に書かれた、とされます。現在の旧約は、JE(つまりJとE、二つの資料を合わせた)編纂者(たち)によって記された、と見られます。もっとも日本語訳ではJ=ヤハウェもE=エロヒムも共に「神」という同じ訳ですので、私たちに違いは判りません(英訳の聖書でも一律に「God」と訳しているものが多いため、言語による理解に、さほど大差はありません)。しかし言語学的に聖書と向き合うとなると、これは大きな問題です。

これらの説は十九世紀末のヴェルハウゼンという聖書学者が唱えたもので、以後、この説が聖書学を支配していたようです。ただ、これには異論もあり、特に二十世紀の七〇年代半ばから様々な異説が出されて、今となっては、最早、ヴェルハウゼン説をそのままに信じる人はいないそうです。しかし、では、ヴェルハウゼンに代わる、これといった別の決め手の学説があるか、というと、残念ながら未だありません。ただ原資料の旧約のモーセ五書に神をヤハウェと呼ぶ資料とエロヒムと呼ぶ資料が混じり合っている事実は事実です。いつ誰がどのような意図でそれらの資料を編纂し、結果、まとまりのない五書を作成したのかは、だから今のところ謎のままです。

ところで、私が高校時代の七〇年頃には、それでもモーセの出エジプト記は歴史的な事実のように語られてありました。これは私の学校がミッション校だからという理由ではなく、当時の「文部省」検定の世界史の教科書や副読本に、きちんと年号まで入れて、そう記されていたのです。それによると、出エジプト記は紀元前一二三〇年頃のことだとありました。最近の記事では、少し下がって、紀元前一二六〇年という説もあります。いずれにせよ、どういう根拠で算出したのか、よく判りません。もっとも、今では、これらの年号を信じる人は少ないと思います。対応するエジプト側には何の資料もなく、論証できないからです。もし先の年号を信じるならば、出エジプトは、時代的には、第十九王朝ラムセス二世の治世下の出来事になります。

旧約には奴隷に落とされた(ヨセフの子孫ら)ユダヤ人六十万人がモーセに率いられて大量脱出した、とありますが、そのような大事件なら必ず記されるはずのエジプトの歴史書に何らの記述もないことから、一般的にこれが史実だったと信じる人は今では、(原理主義のクリスチャンを除いて)殆どいません。もっとも六十万という数値も、ユダヤの数秘学で「イスラエルの子ら」という文字を数字に当て嵌めると、「六十万三千人」となることから、かなり「盛っている」可能性は否めません。しかし、とにかく双方の史書に記されて、クロスチェックがなされ、歴史は事実だと証明されるのが筋であり、片方の神話だか伝説だか判らない文書に書かれてあっても、それが真実だとは言えないでしょう。むろん、各国の歴史書はその王権に都合のよいことしか記されてていないものだ、という常識はありますが、全く痕跡さえ残っていないのは妙です。しかも聖書には年代を明示するなんの指標もありませんから、そちらから算出することも出来ないのです。だったら、もう伝説としてしか、読めないでしょう。ただし、仮にも一個の民族の歴史をひもとく第一巻に相当する「伝説」です。何者が編纂したにせよ、そこに矛盾があるにせよ、それなりの因由は在ったはずで、それを解明するのが、今の私たちにあたえられた仕事です。

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ちなみに、「イスラエル」という名が歴史上、初めて見えるのは、第一講の4に記したように、エジプトのファラオ、メルネプタ王(紀元前一二〇〇年頃)の時代の石碑「メルネプタ石碑」にヒエログリフで「YSRYR」と読めるのがそうだ、と言われています。紀元前一二〇七年にメルネプタ王が、いくつかの戦いに勝利した讃美を記していますが、最後から二行目に「メルネプタがアシュケロン、ゲゼル、ヤノアム、イスラエルを倒して破壊した」(大意)というカナンでの軍事行動について言及があり、「YSRYR」という文字はそこに現れます(ヘブライ語と同じくアフロ・アジア語族なのでヒエログリフには子音しかなく、母音記号がないため正確な発音は判りません)。

ということは、古代ユダヤ人は、その頃にはエジプトのファラオが自ら軍を率いて派兵するほどの勢力になっていたことになります。もっとも、この記録は逆にユダヤ人側に明確に記したものがないため、確然とは判らないのですが、時代的には、士師記第一章冒頭に、「イスラエルの民が主の前に罪を犯したので、主の怒りがイスラエルに対して燃え、かすめ奪う者の手に渡された」といった記述に照応している可能性はあります。しかし、どのみち、士師記じたいの年代が不明なので、いつの話であったかは判然としません。士師たちの活動期間を単純に足していくと大体、合計で四百年間ほどになるのですが、第五講のギデオンの講読で記したように、士師記は紀元前一四〇〇年から一一〇〇年にかけての三百年間くらいに比定されますので、これも曖昧であり、また世界史的にいつからいつまで、といった同定が困難なため、残念ながら不明です。

さて、出エジプト記にはじまる伝説では、ヨセフの時代の後、エジプトにヨセフの故事を知らない新しい王が立ち、殖えてゆくヨセフの子孫たちを脅威に感じて、彼らを重い労役につかせ、その上に監督を置いて見張らせました。要するに奴隷にされたわけです。この期間は四百年続いたとあります。モーセはエジプトに生まれたユダヤ人で、レビ人の出身でした。つまり祭司階級です。彼が幼少のみぎり、ファラオの夢見が凶く、ユダヤ人の男子が長じて災いをなす、という予言に従い、王命による嬰児殺しが行われていた時、それを忍びなく見逃した助産婦により葦の小舟に乗せられナイルに流されます。そこに水浴みしようとしたエジプト王家の王女が彼を見つけ、侍女に命じて拾い上げられ、王女の下で育てられたとあります。

その後、自分のユダヤ人としての自覚に目醒めたモーセは、横暴なエジプト人の監督が同胞のユダヤ人を虐待しているのを見て逆上してこれを打ち殺し、ファラオ直々の命により殺害指令が出されたため、モーセは追跡を逃れ、エジプトを離れます。遠く沙漠を越えシナイ半島の対岸にあるアラビア半島の沿岸部ミデアンの地にて、そこの祭司エテロの養子となり、四十年間、潜伏していたところ、羊を追って神の山ホレブに来た時、神の命が下ってモーセは再びエジプトに舞い戻ります。今度は、同胞の救い主として。旧約には、神は自分が契約を結んだアブラハムの子孫たちが苦役に喘ぐ声を聴き、イスラエル人との契約を「思い出した」とあります。どうやら忘れていたらしい。ひどい神様もあったものですが、まあ、いいでしょう。ヤハウェはモーセにいくつかの力(超常能力)を与え、四百年の苦界からイスラエルの民を解放させるべくファラオと交渉させます。

それから紆余曲折あるのですが、結果的に、モーセはヤハウェの力で奇跡を起こし、なかなか言うことを聞かないファラオも、十の災厄を起こされた十番目に、ユダヤ人の家以外のあらゆるエジプト人の家にて、人から家畜までの「ういご(初子)」が神により撃ち殺されます(※2)。ついに根負けしたファラオとモーセは約定を交わし、同胞らとエジプトを脱出します。しかし、すぐに約定は破られます(旧約の書き方だと、ヤハウェがファラオを心理操作してそうしたように読めるのですが)。そしてファラオの軍勢が紅海に差しかかった時、モーセの号令で海が割れ、ユダヤ人たちは逃げ延び、追っ手のエジプト兵らは割れた海が元にもどって波に呑まれます。

その後、神の導きにより民は沙漠を渡り、シナイ山にて十戒を与えられます。ここに旧い契約(=Old Testaments)が結ばれて、ユダヤ人はヤハウェ神の庇護下におかれます。しかし民は罪を犯し、神の罰により四十年、シナイの荒野を彷徨うことになります。約束の地カナンを目前に、ささいな罪でモーセもカナンに入ることを許されず、百二十歳の生涯を閉じます。その墓所の在り処は誰も知る者もない、と聖書に記されてあります。一冊の書に記された功績のあるモーセにして、この仕打ちです。彼だけではなく、エジプトを出立した第一世代のユダヤ人は特に許されたヨシュアともう一人以外、誰一人として約束の地を踏むことが許されませんでした。ハビル人たちにとって、一体エジプトで奴隷だった方が良かったか、シナイの荒野に四十年も流刑同然だった方が良かったのか、私には判断がつきません。
指導者のモーセの墓すらないのですから、彼ら六十万人のハビル人たちは沙漠の流砂に消え、その骨を拾う人もないのだろう、と思う他ない。先行する預言者(ナビー)として、モーセの功績を称えるのは、この時より八百年頃先のイスラム教徒たちでした。しかし、彼、モーセが創り上げた宗教、「ユダヤ教」は世界最初の「一神教」として、残りました。
その後は、次代の後継者ヨシュアが「ユダヤ人」を率いてカナン侵攻を開始します(ヨシュア記)。

※2)このユダヤ人以外の全エジプト人の家に神の「死」が訪れ「ういご(長子)」を殺害し、ユダヤ人の家だけが「過ぎ越された(英語=Passover)」ことの記念として後の世の「過越祭」が祭られることになります。

しかしながら、私が七〇年に、ミッション校で最初の頃に習ったのは、以上のような伝説的物語などではありませんでした。それは純然たる聖書考古学的な事実だったのです。二十世紀にはいり聖書学も進歩をとげ、聖書の中に文字で書かれた記述や文言を比較したり分析したりするより、実際に史跡の下を発掘したり、人知れず埋められた遺跡の古代文書を解読する実証的な方向へとシフトしていった時代となっていたのです。四七年に発見された「死海写本」は、まだその時点では解読されていなかったのですが、これが当時の大ジャーナリスト、エドマンド・ウィルソンによって取り上げられたことで一躍、世界的に有名になりました。

ウィルソンは文芸批評集「アクセルの城」(三一年)でランボーからリラダン、さらにエリオット、プルースト、ジョイスらを論じて、フランスを主とした象徴主義文学を概説し、これによって文芸批評家として声望を得た人です。しかし、この人は文芸の枠組にとらわれず、政治的な発言や活動でも知られており、たとえば、戦間期にはソ連に渡り、(後にリリアン・ヘルマンをスターリニストと辛辣に批判した)共産党シンパのメアリー・マッカーシーと結婚(戦後、離婚)したりと文学、思想、哲学と把える対象の幅の広い人物でした。

その一つが、二九年にスターリンとの権力闘争に敗れたトロツキーがソ連から追放された際に、欧州を転々とした後、メキシコに亡命した彼のために、「モスクワ裁判におけるレオン・トロツキーに対する起訴に関する調査委員会(通料デューイ委員会)」を組織し、メキシコのトロツキーの自宅において十数回の公聴会を開いて、三六年から三七年にかけて粛清されたトロツキー派に対する「モスクワ裁判」が全くの架空の構罪であることを暴き、彼の名誉を復権しています。また、戦後には米の冷戦や軍拡政策を批判し、ベトナム戦争に反対の意を表しました。非常に気骨のある人で、JFKが選んで彼に与えようとした大統領自由勲章を、暗殺の後、代理でL・B・ジョンソンが授与し、その後、六五年にホワイトハウス主催の芸術祭に招待された時には、「大統領とファーストレディの名で招待された人間が、それ以前にも以後にも経験したことのないような無愛想さ」で断ったと言います。権力におもねることなく、あくまでも自己を貫く知識人の面目躍如です。

現代文化を総合的に把える視野をもち、文学の面においては、プリンストン大学の後輩だったフィッツジェラルドを支援したり、亡命文学者ナボコフを絶賛し世に広めたりと、人道的だが厳しい批判もするフェアな態度で支えました(サブカル方面では、彼は、ラブクラフトを「陳腐な作品」とコキ下ろし、トールキンの「指輪物語」を「子供向けのゴミだ」と酷評したことで知られています)。

実際、文芸ジャーナリストであるウィルソンが取り上げることによって、ヘミングウェイやドス・パソス、フォークナーらは社会的な評価を得られた、といっても過言ではない。それほど影響力のあるジャーナリストだったのです。そのウィルソンが四七年から五二年にかけて発見された「死海写本」の潜在的価値に着目し、五四年にはイスラエルに飛んで現地取材に当たり、翌年、それについての本を書いたことで一部の考古学者のものでしかない死海写本を広く大衆の関心にも訴えたのです。これが、宗教人類学の一画にすぎなかった聖書考古学が、脚光を浴びることになった嚆矢でしょう。

当時はこれが解読されたらキリスト教界は一変するだろう、と私たちは聞かされました。実際に解読されたのは、それから二十年も経った九一年であり、解読された全巻が公開されたのは二十一世紀に入ってからでした。しかし解読され公開されても、その間に進化した聖書考古学と等しなみに、別段、ユダヤ教もキリスト教も一変するほどの衝撃はありませんでした。ただ、クムラン洞窟にあった古文書は、おそらくエッセネ派として知られていたユダヤ教の改革派のものだろう、ということでイエス時代の貴重な文献的証言として聖書学に新たな照明を浴びせたのは事実でしょう。

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ともあれ、その頃に私が聖書の時間に聴いた話では、紀元前一四世紀頃、エジプトの記録に、カナン地方で「ハビル(またはハピルないしアピル)」と呼ばれる「ならず者」が跋扈し、無頼なことをしていて困る。といった文書が残されている、というようなことで、これが恐らく最古のヘブル(ヘブライ)人すなわちユダヤ人のことではないか、ということでした。今、調べると、他に、前一四世紀のアマルナ文書の中には、ハビルたちを賦役労働者や傭兵として使役していた、という書簡もあります。もっとも、今では、さらに古く、そして全てのハビル人が無法者だったわけではなく、紀元前一八世紀半ばのシリアでイルカブトゥム王の将軍シェムバと和議を結んだハビルの王、アララク(現在のトルコ)のイドリミ王がいた、と刻まれたシュメール人の石碑もあります。ここまでくると、おそらく彼らは沙漠に跋扈する「ならず者」集団ではなく、おそらく一定の規模の共同体、あるいは部族だったと思われます。それが、どういうわけかエジプトに移って、最下層の労働者に身を落とした……。

なぜ、そうなったのか、いちばん説得力のある理由の一つとしては、エーゲ海のサントリニ島が紀元前一七世紀初頭に噴火し、沿岸一帯に被害を及ぼした、という、これは歴史的事実があります。この話は、遠い将来のギリシャにおいて、プラトンが唱えたアトランティス大陸のモデルとも言われています。話をユダヤ人に絞ると、おそらくカナン地方にいたハビル人たちは、噴火が引き起こした旱魃や大飢饉などに見舞われて、エジプトに逃れたのだ、と思われます。そこで捕らえられ、奴隷や傭兵に身を落としたとしても、不思議はありません。しかし紀元前一七世紀は少し古すぎるようにも思われます。また当時のエジプトにカナン人奴隷が存在したかも不明です。

古王朝のエジプトでは、そういう映画の影響もあってか、ピラミッド建設などに携わる悲惨な奴隷制度があったように思われがちですが、その後の考古学的研究により、ピラミッドの建設や治水工事は、ほぼ「賦役労働」によるもの、と解釈が変わっています。アマルナ文書の中に、賦役労働者についての書簡があります。ネットに一時出回った誤った言説として、「パピルスにピラミッド建設の労働者が出勤簿を付けていて、宿酔で休んだ」などと書いてあった、といった話が流布したことがありますが、これは謬説で事実ではありません。実際には石版に刻まれた、第十九王朝ラムセス二世の王家の谷の王墓建設に携わった賦役労働者の出勤簿が発見され、労働者が休んだ理由としては体調不良や同僚の看護などが記されています。これらを参照するかぎり、おそらく、大規模な土木建築の時代にすら、最下層民であっても、それは「奴隷」ではなく、むしろ、王が親政しての大きな戦役による戦争奴隷を除けば、新王朝時代になるまで奴隷制がなかったと唱える説が現在では一般的です(もっとも、新王朝時代には、貨幣経済の発達による債務奴隷が発生しています)。しかし自然災害により大量に発生した難民が、古代において奴隷かそれに準じた扱いを受けることは、むしろ自然でしょう。大挙して押し寄せられた方は、彼ら難民を人道的に優遇する義理は何もないからです。

他の災厄としては、「紀元前一二〇〇年の破局(後期青銅器時代の崩壊)」と呼ばれる、原因不明の災厄が地中海沿岸を襲っています。しかし、ラムセス六世(在位紀元前一一四五年から紀元前一一三七年)の頃にエジプト王国は一度滅亡しつつありましたので、これだとカナン人の逃げ場もなくなります。

しかし、こうした背景的事実があったとしても、ハビル人が即ちすぐにユダヤ人の祖先だった、との結論になるとは限らないでしょう。他にも沢山ある、ただの歴史的傍証の一つにすぎません。創世記には、

「さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである」(第十二章第十節)

――とあります。アブラムはアブラハムの前の名前で、むろん、モーセより遙かに以前の話です。

これもまた、サントリニ島の噴火ないし紀元前一二〇〇年の破局と関係ある出来事かもしれません。とはいえ、古代の出来事ですから正確な年代など、誰にも判るわけがないのです(当時、一般の人はおそらく文字を知らず、天文学も知らなかっただろうから、正確な年代を記す術がなかった)。口承口伝の伝説が、後に編纂され、旧約に組みこまれた、と見た方がよいでしょう。神話時代のことですから、実際には、ユダヤ人の祖アブラハムが、奴隷にされた一部族の族長だった可能性さえ絶対にないとはいえない。要するに、付会すれば、なんとでも言えるわけです。
私は、個人的には、「創世記」はノアの方舟からアブラハムやイサク、ヤコブの事跡まで、すべて神話、それも捕囚時代に、他国の伝説に啓発あるいは剽窃して創作された神話だ、と考えています。

実を言うと、古代エジプトには、モーセのような人物像を描いた文学が、すでにあるのです。
フィンランド作家ミカ・ワルタリが「エジプト人」(四五年)で小説化した「シヌヘの物語」という紀元前十九世紀に淵源する古い物語がそれに当たります。ワルタリの作品では主人公はイクナトンの時代の設定になっていますが、シヌヘ物語自体は紀元前一八〇〇年頃の第十二王朝に属する最古の写本が見つかっているので、実際には、もっと前の時代に作られていた、おそらくは朗読される叙事詩だったと思われます。シュメールのギルガメシュ叙事詩が、世界最古の物語だとされていますが、半神のギルガメシュと異なり、市井の人間を主人公にした、波乱万丈の物語としては、シヌヘ物語が最古かも知れません。
私の手許にあるのは角川文庫の全三巻で六〇年に出た大冊ですが、九四年に吉村作治氏の解説を付した抄訳が出ています。五四年にハリウッドで映画化もされました(これは私は未見です)。

本筋とは関係ないので、ワルタリ作品をザッとだけ略述すると、主人公の「シヌヘ」は葦船に入れられナイル川に捨てられた孤児として見つかり、ある医者の下で養子となって育ちます。長じるに及び医者の跡を継ぐのですが、エジプトで犯した女と金がらみの不始末のためにレバントへ逃れます。シリアで医者として成功した彼の前に、遠征してきたエジプト軍司令官のホレムヘブ(後のファラオ)と再会し、その密偵として世界を旅することになります。各地を転々とした後、愛する女を失ない、失意のうちにシリアに戻ったシヌヘは、やがてイクナトン王がアマルナ革命を起こすと、それに参加しますが、内戦を収攬させたホレムヘブの策謀に巻きこまれ、その間にまたも愛妻と我が子を失ない、テーベの茅屋にもどる。その後、彼の奴隷だったカプタは実業家として成功するが、王を批判したシヌヘは紅海沿岸へ流刑され、そこで老年を迎え、この物語を語っている……。

むろん、元のシヌヘ物語を大きく作家の想像力で膨らましているのでしょうが、大まかに述べただけでも、お判りの通り、ここには、もちろん、モーセの物語の素といったものも散見されます。あるいはまた、奴隷としてエジプトに売られたカナン人ヨセフが、その地で支配階級まで登りつめ、後にアブラハムの家族と再会する物語の下敷きとしても読めます。というよりも神話素のように様々な神話伝説の要素(類型や構造)がちりばめられている、というべきでしょう。古代エジプトで高名な文芸だったのですから、捕囚時代の第一級の知識人であった、旧約の書記や編纂者が「シヌヘ物語」を読んでいないわけがないのです。

むろん、出エジプト記にある全てのことが本当であり、モーセという人物も実在し、同胞のユダヤ人がそこで奴隷の境遇にあったとしても、そのことが事実だと立証されるまでは、この「シヌヘ物語」より以上でもそれ以下でもない。歴史の探究とは、いくつかのパーツがあったから、といって全体図が想像裡に出来上がるような単純なジグソーパズルではありません。全てのピースが揃って最後に全て当て嵌まるまでは、それは単なる憶測か物語でしかないのです。

とはいえ、出エジプト記に記されたことが「本当にあったこと」だとしても、奇妙な謎が残ります。
神は(民の不信仰のゆえに)その民を四十年間荒野に彷徨わせた、とあるのですが、実際にはシナイ半島を四十年もユダヤ人たちが、うろうろと彷徨っていたわけではありません。いかに沙漠が不毛の土地でも、シナイは南北の王国にとって要衝の地です。そんなところに数十万もの人間がうろついていたら、どちらかの警備兵が捕まえていたでしょう。南のエジプトはモーセの奇跡で懲りているから、しばらくは放っておいたにせよ、北にはいくつもの都市国家がありました。さらにその北には大国が存在する。そういう時代です。
どのみち六十万は多すぎるので、もう少し人数は規模が小さかったとは思われます。それにしても、のちに民族を形成するだけの規模です。数百人ということはないでしょう。それだけの大勢のハビル人が、なぜ四十年間もは彷徨わねばならなかったのか。そこにはユダヤ民族と神、そしてモーセとの関係が浮かび上がってきます。


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