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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓

   第五講  ギデオン(2)


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とにかく新約聖書で引用されている旧約の文言は、ほぼこのLXXに拠っている、と考えて間違いないでしょう。たまに聖書には、アラム語が原語のまま、表記されている箇所があり、有名なところでは、イエスの末期の叫び、「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」という言葉ですが、これはアラム語で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお身捨てになったのですか」の意味だとあります。

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マルコとマタイ福音書で微妙に異なる表記がなされていますが、これは本歌が旧約の詩編第二十二章の冒頭の詩句「わが神、わが神、なにゆえにわたしを捨てられるのですか」の引用だからで、これはヘブライ語では「エリ・エリ・レマ・アザブタニ」となります。アラム語のギリシャ語転記では「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」なのですが、これは最古のマルコ福音書(第十五章第三十四節)の表記で、それを参照して書かれたとされるマタイ書(第二十七章第四十六節)では、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と記されています。マタイの方は、「エロイ」がヘブライ語の「エリ(神)」に換えられて、より旧約聖書っぽい作為がなされています。さらに、マタイ書では、イエスがこう叫んだ際、刑場に経っていた人が「あれは(古代預言者の)エリヤを呼んでいるのだ」と誤解して言う場面があります。マルコ書にも同様に「そら、エリヤを呼んでいる」と「そばに立っていたある人」が言う場面があり、マタイ書の書記は、「エロイ」では「エリヤ」を呼ぶと誤解するには不足だ、と判断して改変したのかも知れません。
いずれにせよ、マルコ書がより古いバージョンなわけで、だとすると、通常イエスの使っていた言葉はアラム語だったのか、とも思われます(死に際に、わざわざ他言語は使わないでしょう)。

イエスが、アラム語をふだんから使っていた証左としては、死に臨んだ別な言葉からも明らかです。マルコ書では、イエスのゲッセマネの祈りの冒頭で、

「「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。」(第十四章第三十六章)

――とあります。「アバ(abba)」はアラム語で「父」の意味です。いや、「父」というより、幼児が「お父ちゃん」というような意味合いでした。英語で言えば「father」に対する「papa」です。マルコ書をふくめ、福音書で「アバ」を残しているのは、この箇所だけです。

私は、ミッション校時代、週一で礼拝の時間があったのですが、その時々で外部の教会から牧師が来て説教することがあったのですが、その一人が「天におられますお父様」と呼びかけをするのを見て、驚いたことがあります。普通は「天にまします我が父よ」くらいで、「お父様」と言う人は初めて見ました。しかし、ある意味で、その牧師はイエスの使った言葉をそのまま翻訳して使っていたことになります。

ちょっと今、資料の整理が悪くて、すぐに出てこないのですが、「アバ(新共同では「アッバ」)」というのは粗野な印象で、ギリシャの気風にそまったヘレニストには耐えられなかっただろう、という発言をした人がいました。私があの牧師の言葉に感じた違和感以上のものが、そこにはあったのでしょう。しかし、イエスの影響で、パウロを始め、初期キリスト教会の人々も親しみと尊敬をこめて、父なる神のことを「アバ」と読ぶようになります。パウロは書簡の中で二度(ロマ書、ガラテア書)「アバ」を使っています。

面白いことに、この言葉は、紀元後の数世紀の間に、ユダヤ教のラビの称号として使われるようになり、バビロニア・タルムードにその事例があります。アラム語は、ヘブライ語より古い言語ですから、こういうことも起こりうるのです。サンヘドリン副議長は「アーヴ」と呼ばれており、これは「サンヘドリンの父」の意味です。キリスト教では、東方教会で特にアレキサンドリアを始め主教の称号に使われ(最初期のローマ教会ではまだ教皇はなく、主教でした)、総主教(バチカンでの教皇)の称号が「パパ」「ポープ」となります。今でも、abbaの名残は、フランス語のabbe(カトリックの位聖職者の称号)や英語のabbot(修道院長)となって残っています。ラテン語ウルガタ訳の翻訳者ヒエロニムスは、当時の修道士に「アボット」という称号を使うことに反対しました。イエスが「地上の誰も父と呼んではならない」と言ったからでしたが、どうやら、ヒエロニムスの主張は顧みられなかったようです。

イエス以外の弟子たちも、アラム語を使っていました。有名なのは、ヨハネ書で、復活したイエスにマグダラのマリアが出会う箇所で、最初、マリアはその人影をイエスだと判らずにいるのですが、イエスが呼びかけると、気づきます。

「イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である」(第二十章第十六節)

「ラボニ」は「ラビ」の変形であり、より親密で敬意のこもった用語です。ヨハネ書では「ヘブル語」とありますが、イエス時代のパレスチナで使われていたアラム語であったことが判っています。明らかに書記のミスです。

実を言うと、新約での「ラボニ」の用例は他にもあり、マルコ書でイエスが盲人を医す場面で、イエスが「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれて「先生、見えるようになることです(英語:Rabboni, that I may receive my sight)」と答える際、「先生」は原典では「ラボニ」なのですが、なぜか日本訳ではアラム語のこの語を、ただ「先生」と訳しています。「アバ、父」といった併列表記ではなく直かの訳語であるところを見ると、この書記(や書記が属している「マルコ共同体」)では、アラム語のラボニが父の意味であるのは自明だったことになります。ここでいう「共同体」とは、四つの福音書は、それらの書記が属する(あるいは複数の書記がいる)四つのグループが存在していた、との仮説のもとに、それぞれをその書の名を冠して便宜上、そう呼んでいるので、さして意味はありません。

マルコ書はそうでも、なぜヨハネ書で、アラム語をヘブライ語だ、と誤って説明しているのか。その間違いの理由は、おそらくヨハネ書が書かれた環境、「ヨハネ共同体」では、もはやアラム語もヘブライ語も不分明になっていたのではないか、との説があります。この共同体(教団とも呼ばれる)をヨハネ書の書記と考える学派では、アラム語さえ通用しない土地であることから、共同体のあった場所も、通説のシリア地方ではなく、もっと西方、小アジアないしマケドニア周辺ではなかったかと見なしています。また、ヨハネ書の成立年代も、従来の説で言われている紀元一世紀末頃ではなく、もっと遅く二世紀と見なして、しかも、単独著作ではなく、層状の記述だったという仮説に立ち、そこには共観福音書とは異なる口述資料を使っていたと考えています。
「史的イエスと宣教のキリスト(イエスの非神話化)」を唱えたブルトマンもまた、そうした学派の一人であり、彼はその資料を「奇跡の福音書」と呼んでいます(「ヨハネ福音書について」(四一年刊)による)。その真偽はハッキリしません。ただでさえグノーシス主義の影響が囁かれる、「ヨハネ教団」の異端文書ではないか、と言われる書ゆえに、多様な解釈が見られるようです。

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ここで、一応、念のために付言しておきますと、イエスが叫んだ死に際の言葉は旧約の詩編の引用ですから、言葉どおりの意味ではありません。勘違いして、日本語の聖句のみを読んで、上っ面だけで解釈すると、なにかイエスが末期に神様に恨み言を述べているかのように誤解する人もいるかも知れませんが、それは違います。
イエスが言いたかったのは、あくまでも詩編第二十二章の全てでありました。これは「聖歌隊の指揮者によってあけぼののめじかのしらべにあわせてうたわせたダビデの歌」という外題が付せられた神を賛美する一章で、中には「わたしの着物をくじ引きにする」といった章句もあり、イエスの磔刑ぜんたいが、この詩句になぞらえて描写されたことが判ります。
詩編の詩句は次のように続きます。

「主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである」(第二十二章第二十三節)

そして次のように終わります。

「地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、主がなされたその救(すくい)を後に生れる民にのべ伝えるでしょう」(第二十二章第二十九節から第三十一節)

ですから、恨み言どころか、いまわの際にあってさえ、イエスが神への全面的な賛美をしていることが判るのです。当時の人々は(ユダヤ人なら)誰でも冒頭の一句を聴いただけで、この美しい賛美の章句が全て思い出せたはずです。だから、イエスが恨み言を言っているとか、ましてや「エリ」という言葉から「エリア」を連想するなど、無知な異邦人の勘違いだ、笑止だと判ったはずです。おそらくイエスに対して、さほどの尊崇の念をもたない立場を異にするユダヤ人でさえ、その場にいて、この叫びを聴けば、即座に(ああ、この人は末期にさえ神を賛美している敬虔なユダヤ教徒だったのだな)と思ったことでしょう。


キリスト教は、イエスをメシア(救世主)として、これを媒介に神と「新しい契約」を結んだ。という教義ですので、聖書の名も「New Testament」であり、そうすると新約聖書が依拠している、あれらは何なの? ということになって、これを区別して「旧約(古い契約の=Old Testament)聖書」と呼ぶわけです。

キリスト教の教義(特にカトリックの元になった初期キリスト教会)では、正直なところ「新約聖書」さえあれば、それでよかったのだろう、と思われます。文庫版の後半に、

「(ルカは)、日本人の一神学者も指摘しているように、イエスと旧約聖書(すなわちユダヤ人)との関係を極力否定しようとしている。初代キリスト教会の教父、いわゆる異端者マルキオンが、聖書はルカの著作とパウロの書簡だけでよい。他は不必要だといったのは少しも不思議ではなく、またハルナックが「当時パウロを理解していたのはマルキオンのみ」と言ったのも当然で、今でもキリスト教徒は実質的にはこの立場をとっている」(一七三頁)

――とあるのは、この辺りの経緯を説明しています。

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今では、旧約も新約も聖書として正典となっていますが、これらは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教それぞれの間で、微妙に差があります。外典とか偽典とされているものも少なからず有り、別な宗教や宗派では正典あつかいされていたりします。また同じキリスト教の中でも、流派によって、採択する文書には違いがあります。

大ざっぱに言うと、キリスト教は、宗教改革で分裂して、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)に分かれますが、カトリック系の中でも、さらにローマ帝国が東西に分裂した際、バチカンの西方教会とビザンチンの東方教会に分かれています。ヘンリー八世の時に分派したイギリスの聖公会(国教会)をカトリックの一派と算えることもあります(たぶん、バチカンはこれを認めないでしょうが、教義的には、プロテスタントというよりはカトリックに近い)。
プロテスタント系は、ちょっと私が憶えきれないくらい、分派が多く、統一もされていません。総本山があるのがカトリック系、無いのがプロテスタント系と考えていいかも知れません。

グーテンベルクの活字印刷技術によって、聖書が大量に生産されたことが、宗教改革の拡大に寄与した、とも言われています。それまで聖書は、それを読める人間が限られていました。中世では聖職者だけが知識人であり、俗世間の人間(一般市民)は、そのオコボレにあずかっていれば良い、という立場です。しかし近代的な活字印刷という技術革新が世界を一変させました。パソコンやネットの普及に似ているのかも知れません。聖書はカトリックの坊さんだけの専有物ではなくなり、個々人が自由に買って読めるものになったのです。現代のインターネットがそうであるように、近世において、テクノロジーが世界を一変させた好例でしょう。
千数百年の間に腐敗堕落したカトリックに対するプロテスト(抗議)がプロテスタントの始まりであり、これがキリスト教を真っ二つに分けました。使っている聖書も、違います。

今では、どちらも歩み寄りを示して――というより、二十世紀初頭から、プロテスタントを中心としたクリスチャンが唱えてきた、キリスト教の教会一致運動を、六〇年代に入って、カトリックがこれを認め(第二バチカン公会議)、「エキュメニカル(ecumenical=普遍主義的)」に変わったことから――、旧新教を問わず、世界中で超教派の共同作業で新しい訳書を完成させ、日本でも同様の作業があり、その結果、従来から文語訳や口語訳を出していた日本聖書協会から刊行された、ほぼ同じ聖書を使っています(新共同訳聖書、と呼ばれています)。これには、カトリックの正典であった「旧約外典」だったものを含む「旧約続編」を付して補完し、両者の折り合いを付けています)。

新共同訳聖書01

なお、私が引用している聖書は、それよりもっと古い(初版が私の生年と同じ五四年です)「口語訳聖書」を使っています。新共同訳聖書が刊行されたのは、八七年以後ですから、「日本人とユダヤ人」が出た頃には、その存在が無かったことと、七〇年にミッション校に入った私がずっと親しんできたのが、この口語訳だから、という理由によります。訳語が多岐にわたり、口語訳の訳では不都合のある際には、他の訳書も参照しています。

ただ、一つだけ口語訳聖書で留意すべき点は、プロテスタントが外典として省いた(つまり正統な聖書文献と見なさなかった)ものに「マカバイ記」などがあり、これはダニエル書で断絶している捕囚時代と、捕囚から解放されてパレスチナの地に戻った後、セレウコス朝シリアのアンティオコス(四世)・エピファネスという悪名高い王が登場し、ユダヤ人に対して実質上、ユダヤ教を禁じました。アンティオコス四世にしても、ユダヤ側から見れば「悪魔」でしょうが、当時の情勢は混沌をきわめており、その頃の神殿派(トビヤ家)の所業も決して誉められたものではなく、四世がエジプト遠征中に、エルサレムで勝手な大祭司職をめぐる騒擾を起こしたのは、「ユダヤ人による反乱」と見なされても仕方がなく、新征中の後方攪乱と誤解した四世は、取って返してエルサレムを蹂躙し、騒擾の理由が大祭司職をめぐる宗教的対立と知るや、彼らの宗教を弾圧したのです。まあセレウコス朝を継いだ王としては妥当な判断だと思われますが、むろん、ユダヤ人はこれを潔しとせず、またも反乱したのです。

紀元前一六七年頃、四世の圧政に対抗してユダ・マカバイなる者による勇敢というより無謀な反乱が突発的に起きました。これが案に相違し成功してユダヤ王国が一時的にマカバイ党によるハスモン朝が復興します。その後、セレウコス朝の内紛もあり、和議を結びましたが、ハスモン朝内部でも不和と内訌があいつぎ、ハスモン朝が衰退した後に、紀元前三七年、それを倒して成ったのがイドマヤ系ヘロデ大王のヘロデ朝です。

つまり旧約には捕囚時代までしか描かれておらず、新約には、いきなりヘロデ朝から始まる。その旧約と新約をつなぐハスモン朝を説明するマカバイ記がないと、歴史書として聖書を見ると、断絶がある、というわけです。
まあ、細かく調べてみると、ろくでもない記録ばっかりなんですけどね。しかし、ダニエル書は実際には捕囚解放から大分たって記された、とあり、捕囚からマカバイ蜂起やハスモン朝の盛衰などが、まるで無いと九仞の功を一簣に虧くとも言うし、有るものなら入れてくれた方がありがたいので、新共同訳には感謝です。

今、流通している八七年初版の新共同訳では、折衷案としてこれらの文書を「旧約聖書続編」という絶妙な標題を付けて加えているので、空白期間を埋めることが出来ます。外典というと正典と見なしている宗派の反撥を買うので、かなり粒々辛苦した跡が見えますが、他の外典はともかく、マカバイ記は重要な史書ですから、ここだけは私も口語訳聖書以外に、参照しています。

とはいえ、別段、大昔の文語訳ですら、現在も廃れたわけではなく、いまだに口語訳を使っている教会もあるそうですから、どれを参照しようと批判されることはないようです。現在、刊行されている新共同訳と口語訳とは、文言に多少の異同(※1)がありますが、そういう次第ですので、これも、ご了解ねがいます。

※1)例えば、一番判りやすい異同だと、文語訳で、イエスの言葉として、「誠にまことに汝らに告ぐ」とあります。この非常に格調の高い箇所が、口語訳では「よくよくあなた方に言っておく」に。さらに新共同訳では「はっきり言っておく」と、なんだか、どんどん「ありがたみ」が減衰していくような訳文になっているのですが、これらは、まだ「違い」が判るだけマシな方です。

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先の講読(第三講)で「地の民(アム・ハ・アーレツ)」に言及した箇所は、口語訳のエズラ記では、
「そこでその地の民はユダの民の手を弱らせて」
――とあり、「地の民」が何を意味するかを知っている人間には理解できなくもないのですが、これが新共同訳になると、
「そこで、その地の住民は、建築に取りかかろうとするユダの民の士気を鈍らせ脅かす一方」
――となっており、まるで「なまらその辺に住んでいる人たち」のようにしか読めない。これでは、ヘブライ原語が「アム・ハ・アーレツ」であるとは、すぐには判らないため、あまり好い訳ではない気がします。しかも、新共同訳は用語が統一されておらず、エレミヤ書第一章第一八節では、同じ語が「国の民」とも訳されています。「国の民」で全文検索した結果(※2)では、
「わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて、堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として、ユダの王やその高官たち、その祭司や国の民に立ち向かわせる」
――とあり、意味的には、これでもいいのでしょうが、ここは口語訳では「地の民」とある箇所で、どうして違う訳語を当てたのか、不明です。新共同訳ではエレミヤ書では「地の民」は使われていないのですが(ネヘミヤ書などでは使われています)、「国の民」は同じエレミヤ書の別の文脈では、単なる国民の意味で使われている用語でもあるため、区別が付きにくく、そういう意味でも、統一してほしかった箇所です。
もっとも、これは文語訳の時代から判りにくい言葉で、同じ前述の該当箇所は文語訳だと、
「是に於てその地の民ユダの民の手を弱らせてその建築を妨げ」
――とありましたから、もう、どうしようもないのかも知れません。文脈で推し量るしかないでしょう。

※2)http://ebible.jp/bsrch/srch.html
https://www.bible.or.jp/read/vers_search.html
(これは、日本聖書協会の公式サイトで、口語訳と新共同訳聖書内の任意の用語をキーワードにして検索できるシステムです。これとは別に、口語訳と文語訳を掲載している(おそらく)個人サイトに、次のものがあります)
http://bible.salterrae.net/


自分をユダヤ人だと言うベンダサンは、徹底してユダヤ人サイドから発言しています。
同じ聖書を引用してもなお、そのスタンスはユダヤ人に寄りそっているため、聖書という書物の二面性が強調されて、まるで違う本のような印象がある。

これは、伝統的な日本人キリスト教徒からすると、この本には、まるきり異教に等しい言説が多く、日本のクリスチャンのコミュニティから批判されたのは、まさにそういう点でした。また、ユダヤ人シオニストによってユダヤ人国家たるイスラエルが建国された歴史的経緯から、そして、パレスチナのアラブ人を抑圧している現実から、七〇年当時は、左派の知識人からも批判の対象となっていました。
今は、冷戦構造は崩壊していますので、中東をめぐる情勢はもっと複雑怪奇ですが、七〇年当時、イスラエルは親米で西側の同盟国であり、対するパレスチナ他、一部のアラブ諸国は反米で東側の同盟国とみなされていたのです。中東戦争では、イスラエルを英米が支援し、アラブ諸国をソ連が支援する、といった代理戦争の様相も呈していた。そういう時代だったのです。

こうした聖書の成り立ち、と新約旧約の差異を念頭において読むと、「日本人とユダヤ人」は、スッキリと判りやすい面があります。
以上、ちょっとした寄り道でした。


ところで、ミデアン人ですが、これは、(この先の講読で出てくる)モーセの項目にも登場します。ただし、ユダヤ人の敵としてではありません。モーセがエジプトで殺人を犯した後、逃亡して逃れた先がミデアンの地(シナイ)だとされているのです。ベンダサンはモーセはミデアン人の養子になった、と断じています。つまり、ミデアンはユダヤ人の祖でもあるわけです。

ウィキペディアには「Midian」の英語版の項目はありますが、これには日本語版がなく(なぜか「ミデヤン人」の非常に短い項目だけは有ります)、よく判らないのですが、このミデアンとユダヤ人の敵であるミデアンは、たぶん、同じだと思われます。が、しかし、ハッキリとはしません。
そもそも創世記における「シナイ山」の位置がよく判っていないのです。映画「十戒」でワイドスクリーンを湧かした、紅海真っ二つの伝説も、実際は今の紅海ではなく、もっと別な小さな湖だった、という説もあり、モーセが神ヤハウェから十戒を授けられた、とされるシナイ山の場所も、確実ではありません。
これは学説によって違い、いわゆる「諸説あり」、です。古くは、シナイ山は、現在のジャバル・ムーサ(アラビア語で「モーセの山」)とされ、これはシナイ半島南部の山ですが、他にも、その北にあるラス・サフサファだという説、さらにはミデアンの地をアラビア半島北西部と比定し、シナイ山は半島南端のジャバル・アルローズだとする説など、いろいろです。これらについてはモーセの項目で詳述します。

ウィキペディア英語版の「Midian」項目には、ミデアンは特定の地名や部族名ではなく、宗教的な部族連合を指す、との一部の学者が立てている説も載っており、なんだか判りません。ただ、しかし、他の土地に較べると、ミデアンは両義的で、完全なイスラエルの敵とは見なされておらず、これはミデアン人の妻をめとったモーセが原因かも知れませんが、聖絶(家畜に対しては聖別の意味で、他民族に対しては族殺の意味となる)されるべき民でもあり、友ともなる。日本語版「ミデヤン人」の項目では、イスラエルにとって和戦両面の関係にあった、とされています。

アマレク人に関しても、似たようなところがあり、元々アマレクはイサクの長男エサウの息子の子孫で、南部カナンのネゲブに居住していました。しかしエドム人と同様、早くからヘブル人の敵になっています。この名の民は、モーセに率いられたヘブル人がパレスチナに入った時、最初に攻撃を仕掛けてきた民族(部族)でもあり、また「サムエル記」によれば、サウル王が神命によってアマレク人を皆殺しにすべき際、その王アガグが余りに見目麗しく、ためにそのアガクを捕らえて生かしておいたことによって、神の怒りを買うことになります。預言者サムエルは王の行為を非難し、その場でアガグ王を滅多切りにしています。サウルの次の代の王ダビデも、その見目の美しさ(とゴリアテを仆した勇猛さ)を買われてサウルの幕舎に入るようになったので、サウルには美童の趣味があったのかも知れません。
もっとも、ペリシテ人とユダヤ人との戦争の際、サウル王は死にますが、この死にアマレク人が関与していることを「サムエル記」下第一章が記しています。アマレク人青年がサウル王の陣営におり、サウル王が自決する勇気がなく、彼に殺してもらった、との報告を携えてくるのですが、すでにダビデは竜陽の交わりだったヨナタンの死で激昂しており、このアマレク人青年をその場で打ち殺させています。「サムエル記」上の末尾では、サウル王は自害したように描かれているので、この場面じたい、不可解なのですが、ともあれイスラエルにとって、アマレク人は不倶戴天の敵であることが強調されているのは確かです。とまれアマレク人は旧約の各所で聖絶の対象でもありますが、歴史上は、ミデアン人同様、イスラエル部族に吸収され、呑みこまれて消え去った民とされているようです。

いずれにせよ、神話時代の名前ですから、それが地名であれ部族名であれ、神話的物語の領域です。なにが正しいかなど、今さら、考古学的に追求しても意味はないように思えます。
しかし、ミデアンの名だけは、後でまた出てきますので、心に小さくメモしておいてください。


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