革命的群衆 メモ 0228更新

※随時追記あり

革命的群衆 ジョルジュ・ルフェーブル著

ギュスターヴ・ルボン『群集心理』のカウンター的な著作。

「群衆」という独自の概念は、医学博士ルボンによってフランス革命史研究にに導入されたものである。
ルボンは、「群衆」という言葉で異質な諸個人の集まりを指していることもあれば、エリートと対置していることもある。
まさしく烏合の衆とされる「群衆」を、「心的感染」によって動かされている、とルボンは考察。


しかし、ルフェーブルはルボンの考えを真っ向から否定。


ルボンは「心的感染」をきちんと研究したこともないし、定義もしていない。ルボンはフランス革命の社会史、政治史についても直接ではなくテーヌの研究に頼っていた。「群衆」について語りながらも、これを研究する気はない。心的現象に関するある種の考え方を滑り込ませていただけ。群衆の独自性は消え失せて、個人心理の問題になっている。

散々な言いようである。

ルボンの提示した「群衆」について、歴史家たちも社会学者たちも関心を示さなかった。「群衆」は社会現象というより集合現象であって、流動的な性格なので社会学の対象でななかった。

ルフェーブルは、ルボンの「群衆」につい研究する人がいなかったことに言及。これまでは「犯罪的群衆」foules criminellsが主に研究されてきた。

他方、革命の歴史家たちは、暗黙のうちに。革命的群衆を多少とも組織性をもった行動や祝典参加のために、さまざまな個人が共通の情念、理性的判断に基づいて自覚的に集まったとみなしている、ように思われる。

歴史家たちの分析について。歴史家たちが暗黙に考える「群衆」は群衆ではなく「結集体」であるとルフェーブルは分析。組織性を有している点において、「結集体」は「群衆」とは異なっている。
1792/8/10の蜂起。1793・8・10、共和暦第二年草月20日の祝典。

これに対し、1798年の群衆は組織性を備えていない。/7/14の戦士たち、10/5のマイヤールが指揮する女性デモ隊は、組織の痕跡をとどめていない。農村の蜂起についても同様である。
特に注目すべきは、行動を志向する結集体の性格を帯びる以前に、1798年の集団は、つねに偶然だったとは言わぬまでも、少なくとも革命的行動とは無縁の動機で、まず純粋な群衆として形成された、ということである。
パリの民衆は、散歩などのために、パレ・ロワイヤルの周辺に集まっていた。その時に、ネッケル罷免の知らせが彼らの精神状態を変化させ、群衆状態を作り出し、集合体から革命的な結集体への急変を準備したのである。10/5に集まった女性たちも、パンの不足と高騰に抗議しようと集まったのであり、この単なる集合体が突然ヴェルサイユへと向かうデモ隊に変容したのは、その後のことに過ぎない。
マコン地方のイジェ村では、726の日曜日、農民たちはいつものようにミサに参列し、ミサのあと教会から出て、ごく自然に教会前の広場に集まる形となった。そして、この集まりが、領主の館にに向けての革命的な結集体へと変容し、地方における農民反乱のきっかけとなったのである。
大恐怖が広まっていく過程では、まず野盗の集団が押しかけてくるとの知らせがきっかけとなって、村人たちが集まり始める。当初の恐怖を乗り越えると、日知人は自衛の組織に取り掛かる。この集まりが、時に革命的な性格、つまり、特権身分や国王役人に反抗するといった性格を帯びることがあるにしても、それは後になってからのことであった。
革命期を通じて、とくに基金の際の市場やパン屋の店頭などでは、群衆がこのようにして攻撃的な結集体へと一挙に変容した事例を見ることができる。


ルフェーブルは、群衆の変容の事例を列挙。われわれにとっては、綿密に計画された叛乱の準備よりはるかに興味深い、と説明。たしかに面白い。このあたりはフランス革命史の知識がある程度必要かも。

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