「ミリしら」をするとき考えること

「ミリしら」とは、
ある物事について全く情報を持ち合わせていない状態、および、そのような(何のことか全くわからない)コンテンツのタイトルやキャラクター名などから物語や人物像を自由に推測したり動画に勝手にアテレコしたりする遊びを指す。ミリしらという呼称は「1ミリも知らない」の略。

よく遊ぶ友達が、私とは全くジャンルの被らないオタクであるため、「ミリしら」をして遊ぶ事が頻繁にある。
何の前知識が無くとも同じコンテンツのことについて時間を共有できるし、想像力が豊かであればあるほど推理ゲームのような楽しさを感じられるのも魅力だろう。

この遊びは私が高校生の頃に知って、もう何年もふとした瞬間から始まるのだが、最近なんだか居心地が悪いと感じるようになってきたので 、ここに言語化しようと思う。

「ミリしら」は説明の通り、キャラクターやコンテンツを一切知らない状態から話や設定を想像するゲームであり、当然ヒントとなる情報がキャラクターの見た目しか無い。
黒髪ロングでつり目の女の子なら「ツンデレ。過去につらいことがあり、主人公の優しさに触れてからというもの主人公が困っていれば何でもしてあげちゃう」とか、髪の毛が白くて目の色が青や緑の男の子であれば「絶対に名前に雪とか澪とかの寒色系を思わせる漢字が入ってる。性格はクールであんまり他人に興味がない。シンプルなものが好き。」とか、もっと言えばたれ目で胸が大きく背が低い年上の女の子は「優しくて断れない、受験生の弟のために夜食を作る」とか…。
で、実際その通りということも多い。

高校生の頃は、分かりやすいキャラデザだなぁと思っていたけど、これって、かなり偏見ベースの遊びじゃないですか?と思い始めた。
「ミリしら」をして遊んでいる時、なんだかこれまで私が人生で培ってきた偏見を一挙披露しているような気がして、最近は居たたまれない。

もちろん創作におけるキャラクターというのは、パッと見でどんな内面か分かるように内面を外見に記号化して要素として散りばめていることが多い。特に私が「ミリしら」をするようなコンテンツは、同世代のキャラクターが複数人登場する学園スポーツものであったり恋愛ゲームだったりするので、見た目で性格を表現するのが合理的だというのが暗黙の了解になっていると思う。

それで、外見が性格と連動するのが当たり前の創作世界に一生浸かっていれば何も問題が無いところを、現実と行き来するとそうは言えなくなってくる。
現実ではショートヘアの女子が全員活発と言うわけではないし、読書好きだからといって全員運動神経が悪いわけでもない。かっこいい名前だからといって本人の性格が名前と合致しているとは限らない。

見た目や名前と性格が対になっているキャラデザの世界と、そうでない複合的な要素を持つ生身の人間に接する時とで同じ視点でいるといけない、というのを意識して生活しないと、いつか痛い目に遭うと思う。