「へやぐらし」経験の考察

しばらく仕事を休むことになった。
自分の部屋で過ごしていると、いろいろ気づくことがある。
また働き始めたら忘れてしまうのかもしれないけれど、いまはnoteにまとめておこうと思う。

部屋から出ないことと出られないことについて

部屋から出ないことと出られないことというのは、その意味が全く異なるように感じられる。
「部屋から出ない」のは自分が主体的に選択している。
しかし、この「出ない」は人生に対する諦めでもあった。
コロナという嵐が過ぎ去るのをただじっと待つ。休日に何もせずにただ待つ、空しい休日を過ごしていた。

一方で、「部屋から出られない」となると事情は違ってくる。
部屋で過ごすことは快適である。しかし、部屋で過ごさねばならない。
家族に顔を合わせることができなくなった。
家事や生活の行動さえ制限される。食料の心配も出てきた。

私は、仕事に追われた日々ではしなかったことを始めるようになった。

読み溜めていた雑誌を一気読みした。
窓の外に広がる空を眺めた。
大変穏やかに過ごす日々になった。

部屋まで届けられ、1人で食べる食事は、生活の大きな彩りになった。
この上なく、おいしく感じられた。

自分の部屋を出たらやりたいことについて

ではこのまま部屋でずっと過ごしていたいかというと、そうではない。
自分のやりたいことをやっていきたい。

おいしい魚料理や鶏料理を食べたい。
温泉に入りたい。
カメラを持っておでかけしたい。
走りたい。

コロナの前は何てことなかったようなことが、実は有難いことだ。
自分がどのように生きているか選ぶ権利を、きちんと使いながら生活をしていこう。

仕事と生活の配分について

これまで仕事というものは、私にとって必死に取り組まなければならないものだった。
成果を出して、万が一今の会社から移ることになっても行き先が見つかるようにという、自己防衛の意味合いが強かった。
悲観的であったと言っていいだろう。

だからこそ、生活を捨ててでも仕事に取り組んでした。仕事をすることによって安心感を得ていた。
しかし今は仕事をすることができない。正確に言えばリモートで少しずつ取り組んではいるのだが、職場の様々な刺激を受け入れながら取り組んでいるのではなく、自宅で落ち着いて取り組んでいる。

だが、体調が思わしくなく、午前中しか業務に向かえない。午後は休んでしまう。しかし、精神的な負荷はこれがちょうどよいくらいであることに気づいた。

要するに、今までの仕事は自分の適正な量を超えて取り組んでいたのであろう。
では、これからはどうするか。
専門性をさらに磨く。
仕事量より仕事の質で勝負する。
不必要に遅くまで働かない。

実現のために
自分だからできる仕事をする。
他人にお願いしてできることはしてもらう。
自分の好きなことは後回しにせずきちんとする。

明るくポジティブに生きるために必要なことではないかと考えた。

変わることと変わらないことについて

自分の中で何を大切にするかを変えることはできると思う。
でも自分の気質はそれほど変わらない。
繊細な部分はそう大きくは変わらないだろう。それは受け入れていっていいと思う。

周囲の人も穏やかにできる自分でありたいと考えていたら、先日「あなたは心が広い」と言われた。
穏やかなだけでなく、少しでも明るく生きていく自分でありたいものだ。


いまの部屋での生活を、少しでも明るく過ごしていこう。


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