エッセイ NO.23

 たまに頭がごちゃごちゃして何か言葉を外に追い出さないと体が詰まる感覚に陥る。何かを書いた気になるだけで少し和らぎそうだし何か書いてみる。

 理論をイメージに落とすのは理論を曖昧にするのとは違う。そういう方法が恐らく別個にある。操作できなければならないという意味も含むならそれは対価が発生する何かである。理念と実践は大抵解離するし理想は実現した時点で定義上理想ではないためそういうことなのだろう。

 プリパラはシステムが何に対してのメタなのかよくわからない(学校が相当するはずだけど街の方が自然。でもそう考えると子供が主役なのはやや非対称ではあるか)。リゼロが現実に対してのメタとしての異世界に対してのメタとしてのループ構造というものを取っているが異世界が現実のメタであるはずという消費側(というか僕)の期待が物語の中で切断されているため意味が分からなくなってしまっている。外部が鏡になっていない問題。2期に期待

 初めに戻ると話があるというのは違う世界が設定されているということでそうなると現実よりも違う世界に触れる方が敷居が低いのは何か意味があるような気がする。単純化する時に失われないものとは何か。歪んだものに興味が向くことと繋がっている感じはする。

 人間の条件(アレント)を読んだ。割と面白かった。社会領域が家族の拡張という話は(批判的に書かれてるし西洋の古代においての家族の形態も今とは違っていびつだが)クリティカルな気がする。活動がそこでは失われ労働が上部(構造的には下部?)にくるのはふむふむといったところ。後はマルクスやスミスを引き継いだ労働を生命力と引き付けるのは読んでないだけで割とポピュラーな議論な気はするがふむふむという感じ。工場法などの背景の中で出てきた話だと思うが基本的には人間の欲望(消費から浪費、あるいは富の蓄積)が生命論を生み出しているはずなため普遍的ではある。普通の事過ぎるか

 こんなとこ?何かモヤモヤしてる。もっと頭の中で出口もないどうでもいいことをグルグル回してたはずなのに

 

 

 

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