東洋史学11?

海賊

1645~海賊が前面に出てくる時代(元々海賊はいたが)
1644年スコンビュル・アガ事件
1638年ヴロ-ラ事件

マルタ騎士団

レパントの海戦の原因
キプロス占領したこと→海賊がオスマン朝の船を脅かすという口実

オスマン朝とヨーロッパの間で問題化する海賊行為を見てみよう

16c末~17cセルバンテス『ドン・キ・ホーテ』
マグリブ(北アフリカ)と同じバルバリア海賊
捕虜生活
1.1574年チュニス征服→州になる
2.アルジェ、トリポリ征服
→Garp ocakları ガルプ・オジャクラル (オスマン朝から見て)西の集団
海賊行為で生計を立てる
キリスト教の国(異教徒)
スペイン等を攻撃
交易は双方向型経済活動 or 金銭との交換
Garp ocakları = ヨーロッパから見ればバルバリア海賊

ヨーロッパ側の海賊
マルタ騎士団 十字軍に遡り、巡礼者保護、ロードス島拠点、スレイマン1世により征服された後にスペイン・ハプスブルク家からマルタ島を与えられて1530年移住、マルタ島の聖ヨハネ騎士団
16c前半は地中海の国家覇権争い(プレヴェザ、レパント、欧州での戦争)
・私掠船団が跋扈、公権力のお墨付きがある
・聖ステファノ騎士団
・イギリス、オランダなどの海洋国家が地中海に進出(アフドナーメ(カピチュレーション)を貰い本格的に地中海交易に)
・ウスコク、バルカン半島との間にいて略奪、スペイン・ハプスブルク家
・アドリア海、イオニア海の海賊(ヴェネツィアはライバルの金持ち都市、オスマン朝とヴェネツィア行き来)

ムスリムのバルバリア海賊(アドリア海にもいったが少)だけでなくキリスト教系海賊もいた
ヴェネツィア船にも無関係に略奪

海賊の定義とは

海上や港沿岸での略奪行為は違法ではない(現在は国際法違反)

海上掠奪(ニュートラル)
→1.海賊行為piracy(違法) 平時戦時に拘わらず船に対して無差別に行われる。16c以降公的に犯罪行為とされる
 2.私掠行為privateering(合法) 海軍などの交的機関に属さない私人の船が戦時に公権力の認可を受けて敵国又は中立国の船舶に対して行う e.g.エリザベス女王のドレーク*

*エリザベス女王は海賊行為を公認した?→×
違法な海賊行為と私掠行為の線引きはできていた、ドレークは海賊ではない。海賊行為を黙認することはあっても公認することはない

英仏がそれぞれ私掠行為
合法性は主な海洋国家の間で一定の枠組みを形成
死刑になるのが海賊
私掠は戦争捕虜として扱われる

1856年パリ宣言

イスラームの世界秩序
「イスラームの家/戦争の家」
ヨーロッパ⊂戦争の家
戦争の家の中の友好国に対してアフドナーメを与える
アフド(安全保障を与える)
イスラームの家と戦争の家は対立していて、前者はジハードを通して後者を前者化していくのが名目
アフドナーメ与えればいい
危害を加えることない
時の王様の在位期間中有効
戦争が起こると取り上げられる
安全保障や商業特権
あくまでも友好関係が続く間のみ

海上掠奪
→1.アフドナーメが付与されていない国に対する→○
 2.アフドナーメ付与国→× (「賊徒」ハラーミー)

アフドナーメでの定義

ヴェネツィアに与えたアフドナーメ

偶然賊徒の船に出会いその船が彼等[ヴェネツィア船]を狙って戦闘になったら、勝利する。戦闘でいかほどの人間が犠牲になろうとかまわない。
→反撃を合法化
ただ、人間を捕虜にして、生きていたら決して殺さず、安全にオスマン朝の宮廷に送るように。そしたら死罪にして他の者への見せしめや警告にする。
また、マグリブの船が他の地域の私掠船や陸からの賊徒が来てヴェネツィアや他の地域を襲撃し、捕虜にし、ルメリやアナドル、その他の場所で売りさばいていた。そのような捕虜は誰の手にいようがすぐさま取り戻され、バイロ(イスタンブールにいるヴェネツィア領事)やヴェネツィア側の代表者に引き渡されるよう
アフドナーメ
オスマン朝の人間が
条約上は書いていないが、オスマン朝の人間が捕虜になっても同様
オスマン朝が加害者の場合しか書いていない
シヤル、スィヤル(イスラーム法の中の国際法の部分)はムスリム側が自己ではなく相手を規律するもの(?)
オスマン朝が相手方を攻撃した場合の自己規定を記す


スルタンの名前で出す命令は全て勅令(hükümヒュキュム)
中央の台帳に控える
実物は見られないが台帳は見られる
勅令を知ることが出来る
アラビア文字で右から左へ

宛名:イスケンデリエのサンジャクベイ(軍政の長官) 1629年
  ウルツィニ(モンテネグロ)のカーディー(民政の郡の長官、イスラーム法に基づき司法・行政を担う)

嘆願者:バイロ
フリゲート船(軍船)で略奪船に遭遇、拿捕し金品を掠奪した。

形としてはスルタンからの命令(略奪者を捕まえてヴェネツィア人捕虜をヴェネツィアに返す。その後賊徒を厳しく処罰せよ)

日付(ヒジュラ歴~、勅歴発行日)

海賊行為が行われる
ヴェツィア(バイロ、現総領事)
→オスマン朝中央政府に報告
→中央政府が地方官に対応を命ずる(アフドナーメに則り、処罰と返還)

国が逆でも同様の対応

以上はオスマン朝と友好国との間での略奪行為への対応
アフドナーメに基づく対応
アフドナーメが付与されている間は友好関係にある
戦時は友好関係が中断→アフドナーメが繰り上げられる(中断)

人間は略奪品の中で高価
東アジアでは人間余ってるが、地中海では人口密度低い
マルタ島では1800人(5.5%)の捕虜
人口の4, 5%を占める
・ガレー船の漕ぎ手
・身代金ビジネス

e.g. あるイスラーム法官カーディーの回想録
キプロス島のカーディーに任命
イスタンブールからシリア、エジプトへの海上ルート
同じ船にはパレスチナ方面に赴任するイスラーム法官も
マルタ騎士団の襲撃を受ける
筆者は捕虜に、他の船員は殺害
from埃及、高価な商品いっぱい運んでいる
マルタ島へ
12隻の船と283人の捕虜を連行
マルタ島の牢獄に捕らえられる
オスマン朝の役人や金持ちは捕虜に、リターン見込めそう
捕虜は騎士団にとって商品、健康管理は注意が払われる
病気では病院へ(他の商品にうつさぬよう隔離?)
宗教も配慮、ムスリム捕虜は聖堂で礼拝、金曜日
断食後の砂糖祭シェケルバイラム、1か月後犠牲祭で家畜を屠る
ぽいことをさせてもらえる
早ければすぐ解放
解放条件:
アフドナーメなら捕虜を無償で変換する必要
マルタオスマン間ではない、戦争状態
マルタの人間と捕虜と交渉
500フローリン(カーディーとして貰える1年2か月分の給料)
母国にいる人に肩代わりを頼む
知り合いの高官
オスマン朝の王様や母(16c終~17cは病弱スルタン続き母が政治・外交に影響力)
非ムスリムが手紙を仲介、多分キリスト教徒
オスマンにいた捕虜交換

地方行政
郡(カザー)、カーディーが管轄

シャリーア(イスラーム法)法廷
民政全般担当
公正証書の作成、発行、価格の設定も
治安維持も
中央政府との連絡

法廷も、現物を相手に渡すと同時に台帳に控えを記録
海賊への対応、宛先はカーディー
中央から送られてきた文書の写しも台帳に記録
オスマン朝の歴史、トルコの歴史の一部、デジタルデータのみ
ギリシアもオスマン朝の一部、ギリシアの人にとっては黒歴史扱い、台帳も手袋なしでモノホン触らせてくれる、クレタ島では触ってみられる
2,300ページに4, 500件ずつ
1455年頃が最古
交易都市イズミルの台帳は20cに火事
各地にある
アナトリアだけでなくイスタンブールにも
間接統治の地域にはない
ギリシアもクレタも直轄統治、20cはじめまで作成
全部で1万7000点は残っている

ヒジュラ歴サファル月26日(1663年9月29日)
申立人:ヨルギ
     シェケルパレ(ムスリム)
城壁内がイスタンブール
陳述:シェケルパレが前の年にヴェネツィア海で捕虜になった。ヨルギが120リヤルクルシュを払って解放した。シェケルパレからヨルギに払われた。未払い分はない。承認した。

日付が問題、1663年はクレタ戦争中
ヴェネツィアは敵国同士
友好関係なら無償だが、当時は国交がない
マルタ捕虜になったらシェケルパレは自力解放しないと
自分で払えるわけない
恐らくギリシア正教徒
身代金を肩代わり
シャリーア法廷で証書を発行してもらう

1617年 ガラタ法廷(イスタンブール法廷)
申立人:パヴロ(ヴェネツィア人)
     ファトマ(ファーティマのトルコ語なまり、ムスリム)という女性と同行

陳述:メッシーナ(ハプスブルク家の拠点の港町)から捕虜になったマフムートに43, 200アクチェがかかったという知らせが来た。マフムートの母ファトマに。ファトマは前金として24, 000アクチェを前金として、パヴロに払いマフムートの解放を依頼。残り19, 200アクチェはパヴロが肩代わり。解放後にファトマが19, 200アクチェを後で支払うことを約束する。保証人を出廷させる。クレタ戦争起こる前。

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