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いやらしい心でしか手を合わせるというふるまいができない

京都国立博物館で「親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞─生涯と名宝」という特別展が開催されているらしい。噂ではなかなか素晴らしい展示内容で自分も行ってみたいなと思っているけれども、年度の変わり目に加えて蓮如忌もあってまったく余裕がなかった。5月21日までらしいので、それまでにもし自由な時間が作れるようならと考えているが、カレンダーを眺めながらため息をついている。

先日、頻繁にお参りにいらっしゃる方と、御開山親鸞聖人と蓮如さんのお姿について話していたことがあった。よくお寺の境内に御開山聖人の銅像があったりするが、それを蓮如さんと勘違いされたり、また逆に蓮如さんの銅像を御開山聖人と勘違いされたりしてしまうことがあるそうだ。

「蓮如さんは中宗堂でいつも拝見しているけれども、親鸞さまはどんなお顔をされてらっしゃったのかしらね」

「御開山聖人は本堂の阿弥陀様の左手側にいらっしゃる方ですよ」

「あぁ、そうだったわね。でもよく見えなくて」

そんな会話をしながら、そういえばちょうど京都国立博物館の特別展のポスターとかチラシに、御開山聖人のお顔が大きく印刷されていたのを思い出し、チラシをその方にお見せした。

「あぁ!そうね、この方が親鸞さまね!ポスターいつも見てたのにうっかりしていたわ」

と笑いながら、一枚くださる?とおっしゃるので、どうぞどうぞとお渡しすると、カバンにしまうためにそのチラシを折りたたもうとした手がハタと止まった。

「あぁ、これ、畳むとお顔に折り目がついちゃう…どうしよう」

御開山聖人のお顔を折りたたんでしまうのが申し訳ないという。でもそのまま手に持って歩くとくちゃくちゃになってしまうかもしれない。カバンにしまいたけど折りたたむのは忍びない。悩まれた挙句、お顔をよけて綺麗に折り紙のようにまわりを折って、大事そうに看板の中にしまわれていた。

お顔が印刷されているとはいえ、ただのチラシである。別に折り目を付けてしまったからと言ってバチがあたるわけでもない。偶像崇拝ではないのだという方もいらっしゃるかもしれない。でも、この気遣いはとても大切な事のように思えた。そして、日ごろの自分の身のふるまいを思いながら、はずかしい気持ちにもなった。

吉崎の東別院では蓮如さんのお姿を毎年京都から歩いてお運びし、御忌法要をお勤めされた後また、歩いて京都までお運びされる。今の時代、電車や車だってある。文化的に大事なものなのだというのであれば素人が運ぶよりも専門業者にきれいに梱包して運んでもらえばより確実だし間違いもないだろう。

そもそも、お仏壇の中に掲げられている仏様のおすがたは、所詮は紙切れでしかない。仏像であってもただの木や粘土や金属の塊であろう。合理的に考えれば、そんなものに手を合わせるのなんて愚の骨頂。非科学的で愚かな行為だ。いや、無理やり意味付けをするのであれば、精神的な安定のため、もしくは文化的な継承のため、といったことになるだろうか。意味のないことをするというのは、苦痛だし落ち着かないのだ。私は私がすること全てに何か理由が欲しい。何かのために私は行動し、私は存在していたいのだ。私は愚かであってはいけないのだ。

「何かのため」というものは、そういった愚かさを排除していく。そして排除しきったところにあるものは、空虚な何の意味もないものだけが残るのかもしれない。意味を求めていくことで得られる最終的なものは「無意味」なのかもしれない。

毎朝仏様の前に座ることも、お仏事をすることも、何かのためにすることでは無い。いわんや、お念仏をや。いつから私は、意味を求め、意味に縛られ、何時しか私は意味の奴隷になってしまっていた。

命とは?
人生とは?
なぜ生きるのか?
なぜ死んでいかねばならないのか?

なんだかんだ言いながら、もっともな意味をそれらに付与させんと世の中は必死である。

そして、意味の奴隷となってしまった私も、信心とは、安心とは、御恩ということにさえも、意味づけしようとして、無意味の空虚にそれを落とし込め、心の安定を図ろうとする。それは本当の安心ではない。慢心というのだ。慢心した私は、手を合わせることができない。もし合わせたとしても他に見せ、または自分自身に見せるためのふるまいでしかない。そんないやらしい心でしか手を合わせるというふるまいができない私を、私は何よりも恥じ入るべきだった。

手を合わせるというのは、手に何も持たないということではなかったか。
何も持たず合わさった手の姿は、仰ぐ姿であり、仰ぐ姿が御恩に触れている姿でもある。祖師のお姿を、佛如来のお姿を、大切に大切にいただくのは、片手間ではいけない。手に何か持ったついでではいけない。無手でなければならない。そうでなければ嘘ではないか。ただ手を合わせ、ただお念仏申す。信心も安心も御恩報謝でさえも、こちらが持つものは一切なかったのではなかったか。

チラシに印刷されたお姿に折り目がつくことを申し訳ないとおっしゃる姿に、如来のおはたらきを見たような気になった。人をして、我をして、申し訳ないもったいないと思わさせしめるそれは、私の中には無かった。だからこそ、申し訳ない、もったいないのだ。

なんまんだぶ


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