信心も安心も、必ずお念仏が聞こえる場所に

それまでケロリとしていた方が、お勤めが始まるとすすり泣き、時には声をかみ殺して嗚咽される方がいらっしゃいます。それまではニコニコと世間に向けた表情に努めていらした方が、お取次ぎの途中から畳に伏せるようにその顔を両の手で覆って、お念仏される方がいらっしゃいます。

誰にも見せられない顔を、誰でも持ってます。自慢するようにわが身の愚かさを語るときには、その愚かさは本当の愚かさではありません。誰にも見られたくも知られたくもない愚かな顔を誰もが持っていて、それを世間に向けた表情の下に必死で隠しながら生きています。

仏さまがご覧になってくださるのは、そんな本当に愚かであったこの私の顔です。誰にも見せることのできない。誰かに気づいてもらいたいけど誰にも気づかれたくない、そんな矛盾したこの私の表情です。

私たちは何時しか、家の中でも一人でいるときも、世間に向けた表情を強いられるようになってしまいました。それは誰かがそれを強いたのではなく、自らが自らの精神の安寧のために世間の中で認められる自分を作り上げていっているからかもしれません。

それを、仏教では無明というのかもしれません。

無明が照らされる場所は、無ければなりません。無明が照らされる場所は、このままではいられないわが身をそのままにしておける場所です。無明であるこの私をそのままにしていられる場所です。それを、本当の居場所というのかもしれません。それを「安心」というのかもしれません。

我が心の安寧を望みながら無明に落ち込んでいこうとしかできないこの私に、無上甚深の如来様のまなざしがあります。それを「ご信心」ともいうのかもしれません。ご信心があるところに、安心があり、その中にこの愚かな私が既にあることを知らされた時、人は世間にしか向けることのできなかったその顔を伏せて、お念仏を申すのかもしれません。

「当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。」

信心も安心も、必ずお念仏が聞こえる場所にあります。自力も他力もお念仏がないところでは語りえません。

なもあみだぶ と誰でもなくこの私に聞こえる場所にあります。

如来様と語りえる場所が、如来様によって私たちにはすでに用意されていました。それはどこでもなく、なんまんだぶ とお念仏申す場所でありました。

なんまんだぶ

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