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重ねた手と手に込めたメッセージ

子供の頃、夏休みや年末年始等の長期休みは、母方の祖父母の家で過ごした。
愛知県の春日井にあった祖父母の家は、祖父が友人の手を借りながら自分で建てたらしい。カーポートとそこにぶら下がっていたブランコも自作だった。

祖父は孫たちを、川遊び、時には自慢のコロナマークII2ドアハードトップに押込み、プールにも連れていってくれた、アロハシャツを着こなす、お洒落で優しい祖父だった。

その一方で、祖母には厳しかったらしい。祖母は、それでも祖父が亡くなるその日までずっと一緒にいた。
そんな祖父が亡くなる前、祖母にこんな言葉をかけたらしい。

色々苦労をかけたな。俺がいなくなったら、全てを忘れて新しい生活を楽しんでくれ。

祖父がこの世を去ったのは、年の瀬が迫る12月。年始にはいつもの様にみんなで集り、昔の写真をみて想い出話に花を咲かせた。

祖父の49日を迎える前、母から電話がかかってきた。祖母の家で火事が起きたと。

祖父の建てた家は全焼した。工場で発生した不審火による貰い火が原因だった。

家は全焼したが、ご近所さんに起こされた祖母、年末年始にみんな見た写真、現金やらの貴重品、そして祖父の遺骨が燃えずに残った。

祖父の残した言葉が頭をよぎる。

両親はそこから車で3,40分のところに住んでいたので、すぐに駆けつけることができた。祖母はしばらく実家で過ごしていたが、 人に迷惑をかけたくない祖母は一人暮らしを始めた。

新しい住まいは偶然空室になったアパートで、実家の目の前にあった。そんな場所にあるから、窓の灯りで祖母の無事も確認できる。

祖母の一人暮らしは、午前中に針仕事、お昼少し前くらいから晩までは実家で新聞や週刊誌を読んで過ごし、お風呂に入って帰ってゆく。

そんな平穏な毎日を送っていたが、2回も空き巣に入られた。実家の2階の窓から、祖母の住むアパートは丸見えだが、道路から見ると植え込みで全く見えない。空き巣には最適な環境でもあった。しかし、2回とも貴重品が取られたことはなかった。
祖母はケタケタ笑いながら、隠し場所の秘密を明かしてくれた。

歳を重ねるにつれ、段々と耳は遠くなり、足腰も弱ってきた。着る服は自分で縫っていたおかげなのか、痴ほうの気配は全くなかったが、会うときに話す内容はだいたい決まっていた。

90歳を過ぎると、実家からアパートまでの帰りに、転ばないように母か父がついて行くようになり、そのうち、歩いて1分もかからない距離を車で送るようになった。

95歳を過ぎると、実家で訪問ケアを受けるようになり、アシストバーが取り付けられた。寝ている時間も多くなったが、起きている間は新聞、週刊誌、時には漫画を読んで過ごしていた。

2016年申年の4月に母から連絡がきた。

もう、そんなに長くないと医者に言われたから、会いに来てあげて。

孫たちが入れ替り立ち替り来るものだから、何かを感じていたかもしれない。

ゴールデンウィーク。床に座り、ソファーにもたれ掛かっている祖母の隣で話をしているとき、自分の手を両手で包み込んできて呟いた。

あんたに誰かいい人はいないのかねぇ。

その時、既にお付き合いをしている女性はいたが、色々複雑な事情があり、両親にも告白出来ずにいた。

正直に言うと迷いがあった。でも、今伝えないとその次はもうない。そして、告白する方を選択した。

いるよ。

と、一言だけ伝えた。
写真を撮ることは好きだったが、撮られることが嫌いな彼女からもらった、たった一枚の写真と共に。

祖母は少し上を向き、小さく呟いた。

よかった。
もう、想い残すことはないねぇ。

それから数週間後、母から連絡があった。

たった今、おばあちゃん亡くなったよ。

母の話では、アシストバーに捕まりながら自分でトイレに行ったが、戻ってくるのがあまりにも遅かったので様子を見に行ったら、壁に寄りかかって気を失っていた。トイレから祖母を担ぎ出し、布団に寝かせようとしたところで息をひきとったとのことだった。

誰にも迷惑をかけたくなかった祖母は、最後まで1人で行動した。

祖母が亡くなったその年、彼女と一緒に暮らし始めた。彼女の母親と1匹の猫とともに。

本当であれば、年始の挨拶は避けるべきなのだろう。けれども、干支の置物同様、版画を楽しみにしていた祖母のために作ることにした。
一緒に暮らし始めたことの報告を、重ねた手と手で作った影絵の鳥に託して。

手と手をトリあって、仲良く暮らしているよ。

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