満洲国建国と滅亡の流れ

現代人には戦争勃発の背景やイメージを掴みにくいので、過去の事例
を見ながら考えてみよう。日本が外国に領土を持った経緯を理解するためまとめ年表を書いてみます。間違いがあるかもです。

1839年 - 1840 アヘン戦争

清は英国に敗戦し不平等条約である南京条約を締結。

1856年 - 1858年、アロー戦争(第二次アヘン戦争)

英仏はさらなる利権を求めまた戦争を開始。清は敗北し、天津条約を締結。

1856年、清は洋務運動(富国強兵運動)を推進

当時欧米の植民地競争により国力の衰えていた清は富国強兵すべく、台湾に防衛力強化のため、インフラ整備などを開始。

1885年、台湾省が設立

1886年に初代台湾巡撫に劉銘伝が任命され、洋務運動は本格化した。漢族系住民は30万人(1683年)から約9倍の255万人(1893年)となる。

1895年 日清戦争

朝鮮半島で、農民たちの蜂起(甲午農民戦争)が起こり収束できないため、朝鮮は清に助けを求める。清は朝鮮に派兵し、同時に日本も公使館や居留民を保護を理由として派兵。甲午農民戦争終結後も、清日両軍撤退せず、戦争に発展した。日本は戦いに勝利し、遼東半島を獲得、清の影響力を削ぐため朝鮮半島を独立させた。また台湾を獲得し、賠償金受け取った。しかし、これに強く反発する露仏独は遼東半島を清に返すように要求した(三国干渉)。当時国力の小さな日本は三国を相手に抵抗できず、遼東半島を清に返還した。日本による台湾統治は1895年から1945年まで続く。

清を食い物にする欧米列強(中国分割)

欧米列強は清が弱国であると気づく、沿岸部を中心に次々と清の領土を奪い占領した。独は山東半島の膠州湾を占領、露は遼東半島を占領、英は九龍半島(香港)を占拠。
その間米は国内政治のため出遅れる。日本は戦利品である遼東半島を結果としてロシアに奪われ激怒した。ロシアはオスマン帝国(トルコのあたり)、インド近辺でも領土拡大のために、戦闘を行い、英と属国インドの利権が侵害されることに危機感をもっていた英は、日本を支援しロシアを弱体化させることを目論む。そして1902年、日英同盟を結ぶ。

1904年 - 1905年 日露戦争

不凍港を求めて領土拡大するロシアは遼東半島に「旅順港」、そして「ウラジオストク」という軍港を開設していた。ロシアは満州を占拠し、次に狙ったのが朝鮮半島だった。
南下するロシアに日本は恐れ、戦争を開始。日露戦争の戦費は国家予算の7倍にあたる20億円であった。日露戦争の戦費のほとんどは、グローバルに事業を展開する英国と米国の投資銀行を経由して、ロンドンとニューヨークで調達されました。
日本軍は乃木希典が指揮し、1万5千の戦死者を出しながらも旅順を陥落させた。旅順からウラジオストクに向けて分けた日本戦力はウラジオストクの軍艦も破壊したが港の占拠はできず。ロシアはヨーロッパから当時世界最強と言われていたバルチック艦隊を呼び戻す事とした。ヨーロッパからウラジオストクへの航路にある港は全て、英国の占領下、日英同盟もあり、バルチック艦隊は燃料の補給もほぼできず対馬を抜けて日本海を通ると予測した東郷平八郎は海軍を待ち伏せバルチック艦隊を撃破(日本海海戦)。重税により戦費調達していたロシアは各地で国民が反乱、もはや戦争どころではなくなった。一方日本も海を超えて、攻める戦争は、国内経済と国民生活を大きく圧迫していた。百万の兵と動員し、八万以上の戦死者をだした。これ以上の戦争続行はできなかった日本は、米国に働きかけ、米国が仲介しポーツマス条約を締結。内容は以下の通り

  • ロシアからの賠償金はなし

  • ロシアが満州に建設した鉄道路線の一部である南満洲鉄道の経営権

  • 附属地の炭鉱の租借権

  • 関東州(中国の地名)の租借権

  • 朝鮮半島での優越・監督権

  • 樺太の南半分

しかし巨額の戦費を費やして勝利したにもかかわらず、ロシアからの賠償金は獲得できなかった。この戦果に不満を募らせる国民は「日比谷焼き討ち事件」を起こす。

1910年、日本を朝鮮半島を併合

遼東半島を足がかりに資源をもとめ満州へ進出するのが目標となっていた日本は朝鮮半島を併合した。朝鮮は日本となり、これは1945年の日本敗戦まで続く。

1912年清は国力低下により滅亡、孫文率いる中華民国が建国

が、すぐに、各地に軍閥が起きる。

1918年、第一次世界大戦終戦

英国との同盟により日本も参戦。中国各地やドイツ占領地に主に軍隊を派遣して対抗した。主な参戦理由は日本も主に中国へ勢力拡大がしたかったから。これにより、欧米からも日本は警戒されるようになる。
第一次対戦は終結、日本は戦勝国となる。それにより敗戦国ドイツの保有していた、中国の山東半島、サイパンの統治権を手に入れる。

その後、世界は軍備縮小の流れとなった。裏には欧米のアジアの利権を増やしたい、日本を弱体化させたいとの思惑がある。

1925年には、日本ではじめて、所得制限のない選挙が実施

政治家は軍縮、協調外交を推進し、軍部は不満を募らせた。
さらに、獲得した山東半島を返還し、軍部、メディアは内閣を非難。

1925年、孫文が亡くなり、後を継いだ蒋介石が、南から北へ軍閥を倒し進行

満州の利権が脅かされた日本は軍閥 張作霖を支援して対抗。張作霖の勢力は成長。しかしのちに張作霖は米国との繋がりをもつようになり、日本の不満が増大していった。張作霖はアメリカ資本を利用して南満洲鉄道に対抗しうる鉄道を計画した。

1927年、満州に消極的であった時の若槻内閣は総辞職した。

1928年、関東軍の一部は、張作霖以上に日本の言う事を聞く人間が必要との考えから張作霖を鉄道爆破で殺害、その事件を蒋介石の国民党の犯行であると発表。
当時の田中義一首相は、犯人の処罰を言い渡すも、陸軍他に反対され、事件はそのまま流れた。
この事実を殺された張作霖の息子、張学良は知り、日本に敵対、蒋介石と手を組むことになった。

1929年世界恐慌発生

日本は対応を誤り1930年より昭和恐慌が発生、大不況となる。東北、北海道で大冷害による凶作で餓死者は45万人にも上ったとされる。このような背景で、資源のない日本は、日本経済の生命線と考えられていた満州を失うことはできなくなる。

1930年、張学良は父である張作霖が計画した鉄道を建設、その影響で南満洲鉄道は初の赤字となる。

蒋介石の中華民国は、軍閥を倒し、中国を統一、中国共産党と対立。
中華民国とは協調路線をとっていた日本だが、国民は飢えと貧困により、軟弱な政府の方針に怒りを覚えていた。
満洲では高まる半日感情、北からはロシアの圧力が加わっていた。このままでは満州利権を維持できない、軍事力で対抗せねばとの機運が高まる

満州事変(柳条湖事件から建国一連の流れ)

1931年9月、柳条湖事件(9.18事件、奉天事件)

南満州鉄道の線路を日本は自ら爆破し、犯人を中華民国側の張学良による犯行だと発表した。
自衛のためと称して中国軍への攻撃を開始。日本政府は、事を治めようとして満洲侵略の不拡大方針を決定、しかし関東軍は独自に戦闘を拡大、事前の準備もあり、半年で満州の主要部を占領した。ここに清の最後の皇帝であった溥儀を肯定として迎え入れて、1932年、新しい独立国「満洲国」の建国を宣言した。

国連は満州侵略が治らないことに不満を募らせ、英国のリットンを団長とする「リットン調査団」を満洲に派遣、日本の軍事行動は自衛的行為とは言い難いと結論づけた。満洲国は独自に建国されたものではなく、満州を非武装地帯とし国連の指導と中国主導下に自治政府を樹立すべきとなった。

背景には、内閣による、山東半島返還や、軍備縮小など、弱気な政策への不満と。新聞や日本の国民世論が満州事変を全面的に支持したことがある。

1932年、五・一五事件で政党政治が終わる

満州国建国に消極的だった犬養毅首相は「五・一五事件」で暗殺

1933年、満洲国経済建設綱要を定める。これは一業一社とする国営独占的特殊会社の体制を構築し、それらは日本軍部の支配下に置かれた。

1938年、移民促進。例えば香川県栗蔵村では村を2つに分割、片方を満州へ送ることとした。同様の開拓団が数多く日本から満州へを送られる。主には農地を相続しない次男三男などが多かった。(満蒙開拓移民)。
日本で戦争により、成人の人手確保が困難になると「満蒙開拓青少年義勇団」という16歳から19歳の青少年を満洲国に開拓民として送る制度を作った。

満洲国建国は、日本の利権拡大に不満をもつ欧米各国からも批判を浴び、国際社会から独立国として承認されることはなかった。それを不服として日本は国連を脱退、そこから日中戦争、太平洋戦争へ進むこととなる。

1935年、「相沢事件」勃発

軍部の2つの派閥、「皇道派」と「統制派」の争いが激化し、皇道派の相沢三郎陸軍歩兵中佐が、統制派の軍務局長永田鉄山少将を昼斬殺した事件

1936年「二・二六事件」

軍部は約1500人を率いて大規模クーデターを断行、高橋是清、齋藤実など重臣4名や警察官5名を殺害。首謀者の青年将校ら19名は軍法会議で死刑となる。

1937年 北京郊外の盧溝橋(ろきょうこう)事件

これをきっかけに中国全土に戦闘が広がる。
1937- 1945 、長期にわたる日中戦争が勃発

1941年太平洋戦争勃発し、成人男性を徴兵、満州の成人男性は減少。
1945年、日本は敗戦する。この直前にソ連は日ソ中立条約を無視して満州に侵攻、ほぼ成人男性のいない満洲国は崩壊した。当時満州居留民を置いて、敗戦を悟った関東軍首脳は事前に脱出したという。
当時日本の敗戦に絶望した満州の村では集団自決もあったという。
ソ連軍により殺害略奪された。ソ連軍以外も日本人に対して襲撃をし多くの死者を出す。ソ連軍は関東軍兵士を捕らえシベリア強制収容所へ送った。(シベリア抑留)
終戦時兵士ではない満州開拓移民は約30万人いたとされるが、日本に帰国できたものは約10万人とされる。それ以外は死亡したり、中国に残留して生きることとなった。(中国残留法人)
1950年、5年シベリアで強制労働を強いられていた日本人はその後徐々に帰国した。

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