優しい繋がりと『始まる世界』
あちら側とこちら側。色んなところで、色んな線引きがあるよね。それに酷く傷ついたり、仕方ないと諦めたり、何も変わらないと知っていてもあらがわずにいられなくなったりする。
そもそも、あちら側って何?
こちら側って、どんな人のこと?
人はあちらとこちらと、分けることで安心してきたのかもしれないよね。その安心が霧のようで実態がないのかもしれないのに、ないものを、あるかのように振る舞い区別していく。
その区別が、あたかも正義なのだと振る舞うことに傷付いている人がいるのだと想像もしないんだよ。
「今ここ」に、いる。
「今ここ」に、いるから、
あなたと私は、ここにいる。
目を合わせている。
話をしている。
それは、奇跡だ。奇跡の連続なのだ。
何かが足りなくても、何かが多くても
「今ここ」に、一緒にいれない。
何々するべき。という言葉は好きではないけれど、
あえて使う。「今ここ」にいる、同じ時代を生きている、その奇跡に敬意を払うべきなのだと思う。
あなたは、ここには属さない人間だ
わたしは、ここにいてはいけない人だ
そのような思いが何を産むのだろう。
例えば、
誰かが、働き
誰かが、家事をする
誰かが、学校へ行き
誰かが、子育てする
誰かが、介護をする
そして、ママがそうだったように療養している方もいるでしょう。
そして、皆、最後に塵に返っていく。
それぞれの場所で、自分に与えられた役割を
精一杯に果たす。それでいい。
それ以上でも、以下でもないのだと思う。
自分が酷く惨めで、何て不幸なんだと嘆きたくなる時もある。
置かれている立場のあやふやさに、倒れそうになる時もある。
あまりの理不尽さに、大声で叫びたくなる時もある。
それが、役割を果たしているということ。精一杯、今の生を全うしようともがいているんだということ。役割を果たそうともがく人を、笑わない自分でありたい。応援する自分でありたい。そして自らも、そんな自分でありたい。泣きながらでも胸を張っていたい。
ママがまだ幼い頃、身体が弱く小児科に診て貰う機会が多かった。病院に連れて行ってくれるのは決まって父でした。診察が終わり、廊下に出たら、大きな大きなお兄さんが立ってました。
ママは、
「すごい太ってる〜〜」
お兄さんを見ながら笑いました。
すると、いつも優しい父が烈火のごとく、猛烈に怒りだし、静かにしかし強い口調で、
「いけない。人の事を笑う権利は誰にもない。謝りなさい」
納得いかなかった。太っているのを太ってると言っただけなのに。納得いかなかったけれど父の剣幕に押されて、しぶしぶ謝りました。それを見て父は、お兄さんとお兄さんのお母さんに、「申し訳なかった。親として恥ずかしく思う。ごめんなさい」深く頭を下げていました。
帰宅してからも父の怒りは冷めずに、お昼ご飯も食べさせて貰えずに話しかけても、応えてはくれず…何てことをしたのだと、やっと気付き出します。
父は、
「世の中には色んな人がいる。見た目が違って見えたり、言葉が話せない人もいる、あなたと何ら変わらない、懸命に生きてる人達なんだよ。その人達を笑うのはお父さんは許さない。2度とするな。約束できるか?」
とても辛そうに言葉を絞り出していました。ママは大きく頷いて、
「しない。人を笑わない。約束する」
胸に刻んだのでした。
誰かが、誰かの役割を果たす
私は、わたしの役割を果たす
それで、社会は上手く回っているんじゃないかなと、ママは思う。
人を面白がったり、頑張りを嘲ったり、
押し付けて力を見せつけたり、怖がらせたり、
それが立ち位置を確認する事ではないよね。
貴方は、あなたでいていい。
私も、わたしでいていい。
ただ、それだけのこと。
それが、ママの思う
「優しい巡りであり、繋がり。始まる世界」です。
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