コロナ自粛からICL2020出場までを1人の部長が振り返る
※この記事は オリエンティア Advent Calendar 2020 の20日目の記事です。
全国のオリエンティアの皆さま
初めましての方が多いと思います。オリエンティア Advent Calendar 2020 の20日目、12月20日の記事を書かせていただきます。伊地知と申します。
自己紹介
伊地知淳(いじちじゅん)。千葉大学2018年度入学の大学3年生、千葉大OLCの部長および第25回千葉大大会の大会責任者をやらせて頂いております。今年の4月にはES関東クラブに入会しました。
(先輩が撮ってくれていたICS2020の写真。こんな感じの顔です。)
誕生日は2000年2月18日とゴリゴリの早生まれです。そのため3年生でAsJYOC2020のM20代表に選んでいただくこともありました。
その他関東パークOツアー2019で大学生1位、ICS2019で22位、ICS2020で29位、辺りが私の主な実績かと思います。スプリント競技が得意で大好きです。
神奈川県相模原市で生まれ育ち、現在は千葉市の大学周辺で一人暮らしをしています。父の実家がある宮崎県が大好きで、暮らしたことはありませんがこちらでふるさと登録をさせていただいております。
(宮崎県串間市の都井岬ではこの距離で野生の馬と触れ合えます!)
きっかけ
なぜ私がこんな記事を書くのか。経緯を少しばかり語ります。
今年8月ごろ、茨城大学の部長(当時)の竹下晴山君の発案で、全国部長サミット(私が勝手に呼んでいる)がZoomでゆる~く開催されました。私もゆる~く参加しました。
そこで全国の部長たちは、次々と大学や部員からのプレッシャーや負担などを口にしており、「どこの部長も同じなんだ、みんな頑張っているんだ」と勇気づけられたと同時に、今年度の部長たちの努力は特に広く知られるべきである、ということを強く感じました。
そういったきっかけがあり、多くの年齢層の方に見ていただけるコンテンツである、オリエンティア アドベントカレンダー という場をお借りし、「コロナ自粛からICL出場までを部長として振り返る」というタイトルで皆さんに事実の一例をお伝えしたいと思いました。内容はタイトルのままです。私の2月~10月までの日記、みたいな感じになってしまいました。
※この状況下でのインカレへの出場の許可、およびその他活動の許可をくださっている大学当局に、私はもちろん感謝をしております。皆さんも各大学のことを悪く思わずに本記事を読んでいただきたく思っております。よろしくお願いいたします。
夢の国で知った事実
2020年2月中旬、私は友人たちと千葉県の夢の国に遊びに行きました。1月~2月は例年閑散期とされる夢の国。確かに空いてはいましたが、にしても空きすぎているのではと不思議に思っていたところ、
「中国でなんかヤバい病気が流行っているから中国人が来ていないおかげで空いているのでは」
とのこと。
確かに夢の国にしては中国人を全然見かけない。
その時点では、”ラッキー”としか思っていませんでしたし、数か月後にとんでもない事態になっているとも思っていませんでした。
さよなら、合宿。さよなら、部室。
千葉大OLCは昨年度2月27日から3月1日に春合宿を計画していました。
大学に合宿用の届出を提出する際にも、「電車とかの移動中はマスクしてね」と言われましたが、そのときも私は「あーあのウイルスね、ふーん」くらいに思っていました。危機感は全くなかったです。
そしていざ合宿へ。競技責任者の私は運営特権でファミテックに前泊をしていました。夕食をとった後、大学と顧問教員から突然連絡が。
「合宿を中止にしてください」
まさか合宿が中止にさせられるなんて。あのよく分からんウイルス、こんなにめんどくさいヤツだなんて。
想定外の事態に混乱してしまい、全く抵抗することなく合宿を中止にしてしまいました。今思えば1日目のみの日帰り開催なら出来たなと。今更過ぎてちっとも悔しくないですが。
そして春合宿は幻へと消えました。まだ私の家には使用されるはずだった地図がシーリングされた状態で残っています。これどうしよう。
そして部室がクラスターの温床だということで封鎖。プリンターなどが部室に取り残されたままになってしまいました。ここから5か月ほど、部室は閉ざされたままとなります。
消えた所属欄―課外活動って何だろう?
合宿がなくなると共に3月が始まり、合宿だけでなく大会練習会等への参加や新歓等が徐々に禁止されていきました。と同時に、課外活動とは何かということを考えるようになりました。
大学の名を借りて大会や練習会に出場、開催をするのが課外活動であるならば、所属をいつもの「千葉大OLC」ではなくすればよいのでは?大学の名前が出なければ何をしても良いのでは?
こうして私たちは所属を消し、大学の名を背負うことなく課外活動の範囲を超えて大会や練習会に出場するようになりました。
正直「これで良いのか」という疑問は残りましたが、オリエンテーリングをしたいという気持ちが強く、目を瞑ることにしました。
慣れないオンライン―4時間半の長丁場
4月前半。今年度の活動方針などについてのミーティングを初めてオンラインで行うことになりました。
もちろんオンラインでのミーティングに慣れているはずはなく、無言タイムが長く続いたり、逆に言葉が衝突したり、突如麺をすする音が流れたり、4時間半かかってしまったり。今思えば酷い会議だったと思います。
そして、週1で行っていた例会はすべてZoomを使用したオンラインに、週2で行っていた合同トレはすべてオンラインの地図読みに。
週末の大会分も地図読みに変更、という感じで4月~5月は月曜にZoom例会、火曜・水曜・日曜地図読み、という感じで週4回オンラインにて集まっていました。
しかし、5月の中旬くらいになると参加者が固定されてきます。2人で地図読みをする、なんならやらない、という日もざらにありました。オンラインの方が地図読みってやりやすいのでは?などちょっとしたポジティブな気付きはありましたが、やはり何か物足りない感じがありました。
折角だしいつもやらないようなことをしよう、と部内向けに第24回千葉大大会で担当したゼッケンの作り方をzoomで配信したり、作図の様子を部内向けにzoomで配信したり、いろいろやってみましたがなんともいえない感触でした。いつか役に立ちますように。
オンライン新歓―新入生は都市伝説?
6月。ようやくオンラインで新歓活動が解禁されました。
学外の者による”なりすまし” を弾くために、学生に配布されているOfficeのアカウントからTeamsにサインインさせ、TeamsからZoom等に招待する、というひと手間付き。
少し面倒ですが理解できるのでしょうがないと受け入れます。
しかし、Zoomなどでオリエンテーリングを紹介することは思ったよりも難しい上に、参加してくれる新入生も決して多くなく、「新入生、実は存在自体都市伝説なんじゃないか」と笑い飛ばすこともありました。
新歓委員中心に様々な工夫を凝らし、改善点や企画の提案等を行っていきました。誰も経験したことのないオンライン新歓、そう上手くいくはずはなく、感覚的には参加者は平均して1人未満/回といったところでした(ちゃんとした集計はしていませんが)。
この時期は、減らない授業課題、来ない新入生、出来ないオリエンテーリング、、、と1つもポジティブ要素を見つけられませんでした。トレーニングもサボりまくり。霧ヶ峰も当たり前のようにスルーしてしまいました。
そして気がついたら逃げるように実家に帰っていました。”実家のような安心感”とは良く言ったもので、暫くは実家で平穏に過ごしていました。
見えてきた希望―憎いハンコ文化
7月。感染拡大防止対策をまとめた書類を提出し、大学の承認を得ることで活動が段階的に再開できるとのこと。
承認が取れれば、大会練習会への参加も可能になるし、内部練習会も開催できる。そして対面での新歓もできるようになる。見えてきた1つの希望に向け、狂ったように書類を書きました。
また同じころ、延期に延期が重ねられてきた部員名簿の更新作業がようやく到来。
しかし提出には代表者および顧問教員の自署押印が必要とのこと。私はこの連絡を実家で確認しました。
名簿の更新作業のためなら顧問と対面で会うことは許される?じゃあ対面の課外活動もさっさと許してくれ?
という若干の不満を抱えながら、平穏な実家からの脱出を余儀なくされました。
この時体感した、”ハンコ文化>コロナ対策>対面課外活動” という不等式に納得がいかず、ちょうど課されていたレポート課題ではハンコ文化をテーマにする、ということもしました。
こういった感じで意味の分からないストレスを意味の分からない方法で発散していく、という生活でした。今振り返ってみると意味分からないですね。
通らない申請―『否』の嵐
8月上旬。7月に提出した書類の審査結果が発表されました。結果は、、、
『否』
結構頑張って書いたつもりだったものの、努力実らず。
およそ40ある体育会所属の団体のうち審査が通ったのはわずか2団体。厳しい現状を目の当たりにしました。
審査コメントには「競技中でも相互に会話するときはマスクが必要だと思います」とのこと。
森で叫んでいる人とかブツブツ独り言言っている人は時々いるけど相互に会話するシーンなんてそんなものはほとんどない。オリエンテーションと勘違いしているんじゃないか、とかいろいろ文句タラタラでした。
しかし他の団体向けのコメントもそんな感じの理由だらけだったのでここは無理矢理心を穏やかにして加筆修正を施し再提出。
しかし再提出の結果が出ぬまま大学当局はお盆休みに突入。何もできない期間が暫く続きます。この数日間ですらもどかしいと思うほどで、当時は1日でも早く申請を通すことで頭がいっぱいでした。
休みが明けると、申請書を書いては理解の範囲を超える謎理論で蹴散らされる、という辛いループに突入します。
自主トレ期間―自宅周りは意外と良いテレイン
審査結果が発表されたのとほぼ同じタイミングで、私は自宅および大学周辺のストリートマップを作成しました。
印刷したコース図をシーリングしたものを私の家の郵便受けに入れておき、みんなはそれを取り出してストリートOができる、という自主トレ企画を開始。3テレイン7コースを8月~9月の7週間で回していました 。
(ここに地図とかコースを載せれば記事としての見栄えが良くなるのでしょうね。しかし都合上地図をネットに掲載できないのです。申し訳ありません。)
OB・OGの方々にも少しずつコースセットなどご協力いただきながら、3月以降ほとんど行ってこなかった個人的なオリエンテーリング活動を徐々に再開。基本的に8月~9月はこのストリートOを自分のオリエンテーリングのメインとしていました。
ちなみに自宅周りは意外と良い感じのテレインで結構練習になりました。様子が気になる方は千葉大学西千葉キャンパスの周辺をGoogle マップとかで見てみてください。
ただいま、部室
8月中旬。少人数であれば申請をしたうえで部室から荷物を搬出することならできるとのこと。2月末からプリンターを閉じ込めていた我々にとってこれはチャンス。
しかしいざ申請をしてみると、密を避けるために1人で来てください、とのこと。一人で運び出せるのか?大丈夫か、、、?
仕方なく運搬用にカーシェアを引き連れ 1人で部室へ。
いざ入室してみるとカレンダーは2月のまま。思わず「ただいま」と言いたくなるほど待ち遠しかった部室。感慨深いものがありました。
プリンターをはじめとした重めの資材たちを汗だくになりながら車いっぱいに積み、すべて私の家へ。
何故か一人暮らしには勿体ないレベルの広さを誇る伊地知宅(通称”伊地知邸”、某先輩が私の”淳”の字を”停”と書き間違えたことに由来します)。あっという間に資材で埋め尽くされました。
この搬出以降、印刷作業を含め自宅で出来ることが増えていき、その結果上のストリートO企画もコンビニでの普通紙印刷から伊地知邸でのマット紙印刷に進化し、品質が向上しました。
まるで自宅が部室になった感覚。なんでもできる。素晴らしい。
始まった対面新歓―見えない希望と重圧
9月。申請書類の再提出を何度も繰り返しようやく対面での新歓活動が可能に。
しかし、新歓活動は学内でマスク着用の上での徒歩限定に。キャンパスツアーを兼ねながら学内を歩きオリエンテーリングと部の説明をしていく、といった具合での体験会が暫く続きました。
しかしオンライン時の新歓同様、参加者は例年より少なく、参加者を集めるために試行錯誤を繰り返していきます。
一方で学外の大会に参加できそうな気配は未だ来ず。
インカレロングに出られるのだろうか。という不安がよぎります。
どんな手段を使ってでもエリートの舞台で走りたい先輩、初エリートをギリギリながら自分の力で掴み取った後輩、これまで活動を我慢してきた部員のみんなをどうにかインカレの場に連れていくべく、勝手にプレッシャーを感じながら見えない希望に向かって1件メールを送るのでした、、、
【件名】全日本学生選手権大会への出場について―
こじ開けたインカレへの扉
送ったメールに返信が。特別な申請を通せばインカレに出られるとのこと。
しかし、開催判断として選手権の部に出場できる人数を確定させないといけないのが9月14日。
この日までに参加が確定できなかったエリート選手が一定数を上回ってしまうとインカレロングは中止。
期限は約2週間。2名のエリート選手を抱える千葉大学もこれは無視できません。
とりあえず日本学連作成の資料などを頼りに申請書類を作成して提出をするも、なかなか審査結果が届かない。焦りに焦りが重なっていきました。
そして、〆切まで一週間を切った9月9日。審査結果が届いたと思えば、出場予定者個人個人のタイムスケジュールの提出を求められました。
つまり以下の情報が必要に。これがないと出場を許可するわけにはいかない、とのこと。
・駐車場位置
・駐車場-会場-スタート地区 所要時間
・トップスタート、各々のスタート、フィニッシュ閉鎖、閉会式終了の時刻
・各クラス競技時間
ゴリゴリの競技情報だしプログラム発表まで待たないといけないじゃないか、どうすれば良いんだ。正直終わったと思いました。
しかし、日本学連幹事長谷野文史さんが「大学との交渉に困ったときは私へ」と学連メーリスに流してくださっていたのを思い出し、逃げ込むようにメール。
その日のうちに実行委員会に掛け合っていただき、翌日9月10日には、「10月3日のプログラム発行以降スケジュールを必ず提出するという約束付きで暫定的に参加を認めてもらうという方針でどうか」という回答をいただきました。
14日の期限に間に合わせるには日程的にこれがラストチャンス。
これで審査が通らないことでエリート選手が足りなかったらインカレロングは開催されない。これまで我慢をしてきた部員たちの活躍の場もなくなる。
ギリギリの精神状態のままラストチャンスの申請を、まるでサマーウォーズのあのシーンような勢いでEnterキーを押しメールを送信し提出(実は左手でCtrlキーも押している)。
そして14日、待ち望んだ参加許可のメールが届きました。
風の噂では、この時点でエリートが1人でも欠けていたらアウトだったと聞きました。本当かどうかは知ったこっちゃないですが、腐らずに最後まで諦めずに戦えて良かった。そう思い自分の努力を正当化することができました。
全国の部長や幹事長、実行委員会の方々、そして参加を認めてくださった大学当局に深く感謝をし、肩の荷が下りた勢いで私はその日の晩御飯で大散財をしたのでした。
(どんな感じの申請をしたか、みたいなのは、アドベントカレンダーとは別のタイミングで公開できればと思っています。)
いざインカレへ
10月。プログラムが公表され、暫定的に許可をもらっていた申請書類に加筆修正を施し最終版として提出。承認を受け、無事にインカレに出場できるようになりました。
そしてインカレ当日。無事に全員が会場に到着。
この会場に辿り着けたことを嬉しく思うとともに、全力で感謝と恩返しのレースを行うことを会場で改めて誓いました。
個人としては納得がいくレースではなく悔しかったですが、部全体の目標としていた”全員完走”を達成し、エリート2名それぞれの激走を見届けることができ、頑張って良かったと喜びをかみしめました。
翌日参加者の体温を大学当局に報告し、長く辛かったコロナとの闘いに一つの大きなピリオドを打ちました。
さいごに
このコロナ禍の期間で、私はいくつかの"大事なもの"を、自分のせいで諦めてしまいました。そしてそのもどかしさを「部活のせいだ」「コロナのせいだ」と思うことで一時的に解決してきました。逆に言うとそれくらいでしか平静を保つことができませんでした。
しかしそれはもちろん間違った行為で、そのことに気づかされた時にはもう何も残っていませんでした。私の未熟さで部員の皆さんには多大な迷惑をかけてしまいました。あの時の絶望は今でも深く心に残っています。
私がやるべきことはみんなをインカレに出場させることだけではない。未曽有の事態で何をしたらよいのか誰も分からない。9か月ほど部長をやってきましたが、まだよく分からないままです。
ところが、「これだけは間違いない」と私が深く共感し、ボロボロのメンタルの原動力としていたとある楽曲のフレーズを引用し、終わりとさせていただきます。終始何を言いたいのかが分かりにくいような内容でしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
『神様は見てくれなくても 気づいてくれる人がいる』
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