友だちの話

晴れた日は、ほとんど毎日娘をベビーカーに乗せて散歩をしている。だらだら歩いているだけなのに、育児をしている満足感を得られるからありがたい。

いつも行く公園と家のあいだに大きな幼稚園があり、公園に着くとその幼稚園帰りの親子がわんさかいることがある。そうなると、なんとなく公園の入り口でUターンをしてしまう。せめてタイムスケジュールを把握したいが、幼稚園の前には午前でも午後でも常にお迎えのママがいて、規則性はまったくわからない。(そしてお迎えのパパはいないがそれはどうでも良いことです)

今日の公園は誰もいない貸切状態で始まった。ときどき通るおじいさんおばあさんを数えながら、ベンチに座ってベビーカーを揺らす。そろそろ娘が寝入りそうだなぁと思ったとき、例の幼稚園の親子連れが続々と登場した。私は気にせずベビーカーを揺らし続ける。先にいられると困るが、あとから来る分には構わないのだ。むしろ立ち去りでもしたら、居心地が悪くて逃げたかのように思われるので、しばらく帰れなくなってしまった。

幼稚園児の様子を眺める。リーダー格の子、最近"じゅんばんこ"を覚えて得意げな子、滑り台で危険な遊びをして叱られる子、とにかく氷鬼がやりたい子、さまざまだ。私の座るベンチの前にうさぎと馬を模した遊具があり、子どもはうさぎへ、母親は馬へと跨り、「ぴょんぴょん」「ヒヒーン」と言い合う親子。私は人前で「ヒヒーン」と言えないダメな母親になるだろうな、と思う。

ベビーカーの中で娘が寝たので(娘は生活音が絶えない室内でも人の声がうるさいファミレスでも寝られる)、ベンチに座ったまま本を取り出す。村上春樹の「一人称単数」だ。ブックカバーはしていない。

読み終えた本はインスタで公開するくせに、読んでいる最中の本を見られるのは苦手で、ブックカバーは常につけていたのだが、最近、まぁいいかなと思えるようになった。今なら電車の中でもブックカバーのない本をひらける。でも会社ではできない。自意識の拠り所を模索中。

なので最近は素の状態の本を持ち歩いているのだが、この状態での村上春樹はいささかメッセージ性が強すぎないか。同じ幼稚園に通う親子たちが楽しそうに遊んだり話したりしている公園で、遊ぶこともできない月齢の子をベビーカーに乗せた母親が端っこのベンチで村上春樹を読んでいる。ななめっているなぁ、と思う。

読みかけだった「一人称単数」を読み終えるまで娘は起きなかった。長々と居座ってしまったので、「ヒヒーン」と馬になっていた母親の「ぴょんぴょん」まで聞いてしまった。「ヒヒーン」は無理だけど「ぴょんぴょん」なら言えるかもしれない。

高校生の頃だったか、いわゆる陽キャの後輩に懐かれていた。その後輩から、「本を読むなんて、友達いないんすか?」と言われたことがある。それでも私は本を読むことを隠したりはしなかったが、そんなふうに思われることがある、ということだけは忘れられなかった。社会人になり、本を読むタイプの上司が「本を読みなさい」と言うたびに、チラッとその彼を思い出す。きっと私に言ったことなど忘れて、本を読みながら仕事に励んでいるのだろう。

コロナ禍の影響か、私の周りでやや読書ブームである。人が読書に励んでいると、私の読書意欲も高まります。読書もいいし漫画も映画もラジオもいいよね。コロナでも趣味も出費も変わらない私より。(友達はいます。)

好きな漫画をタイトルにしました。

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