雑感 昔予備校の英語テキストで読んだ話

私はたまに思い出す話がある。

予備校に通ってた時だと思う。英語のテキストの長文読解で出されていた話がなかなか興味深く、話の内容だけは覚えてる。


だいたいこんな感じだ。

ある村には牛の品評会がある。そこのイベントとして、壇上に上がった一頭の牛を見物人が体重を予想して投票するというゲームがある。

投票者は見た目だけで予想するのでかなり近い人もいれば大きくずれている人もいる。

投票者は何十人もいて、これを解析すると、正解の体重に最も票が入りこれを中心に正規分布になるということだ。

ここである学者は考えた。普段から牛を育ててるプロたちが予想するのと、全く関わりない素人たちが投票するのとではどうなるかと。

すると、予想通りプロの方が正解に近くなる頻度は高い。ただ先ほどのように統計的に処理するとどちらの集団も正解を頂点とする正規分布にはかわりなく、ただ素人の集団の方が分布のばらつきが多くなるということだった。

このことから、たとえ集団が愚かであっても賢い人たちであっても多数の投票から真実に近づけるのではないかというような話だ。


18年以上前の記憶かつ原文が英語かつ難し目の入試問題だったのでいろいろ違うかもしれないけど多分そう。


ここで私は思う。

あの頃とはだいぶ変わり現代ではネットが発達して個人も簡単に情報発信できるようになった。

ネットを見ていると聡明な人もたくさんいるが、この人ホントに大丈夫か?と疑いたくなるような人もたっくさんいる。

このような世界で見ず知らずの人に、知らない事に対して情報を提供することは悪くないと思うが、かなり偏った意見を持っている人たちに訂正を求めたり口撃する意味は全くないんではないかと思う日々である。

世の中にはいろんな人がいるが全体の集合の社会としては、それなりの真理に向かって正しく進んでいくのではないかと楽観視している自分もいる。

世の中にはいわゆるヤベー奴と遭遇するかもしれないが、自分の身の危険を晒すまでもなく、世界は正しい方に向かい、危険な因子は集団の意志の中で自然に処理されていくという考えは甘すぎだろうか。

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