歌を観るー 歌詞でも魅せる映像ー

 ここ数年、ミュージックビデオの発表形態として「リリックビデオ」という形式を目にする機会が増えてきている。リリックビデオとは簡単に言えば、字幕をも映像表現に取り入れたミュージックビデオである。ミュージックビデオのスタイルとしてのリリックビデオは、古くはボブ・ディランによる1965年のイギリスツアーのドキュメンタリー映画である『ドント・ルック・バック』(1967年)においてオープニング映像として使用された「Subterranean Homesick Blues」が初めてであり、同時に現代ミュージックビデオの先駆けとも言われている。なお、この時の形式は、歌詞が書かれたスケッチブックのようなものを歌に合わせて順番にめくり捨てていくというものだった。
 また、ニコニコ動画におけるいわゆるボカロ黎明期(2007年頃)以降は、字幕もしくはそれ以上のものとして動画内に歌詞が挿入されたものをよく見かけるようになった。
 昨今ではネット上で音楽を聴く機会も格段に増えた。中には楽曲単体ではなく、YouTube等の動画配信サービスで動画として視聴するケースも多く見られる。そこでここではこれまでのミュージックビデオとの差異を取り上げつつ、「リリックビデオとは何か」について今一度分析を試みる。


リリックビデオとは何か

 まずはリリックビデオとこれまでのミュージックビデオとの違いを露わにするために、従来ミュージックビデオがどのように定義付されてきたか、その分類法を取り上げたい。キース・ニーガスの『ポピュラー音楽理論入門』によるとミュージックビデオにおける映像と歌詞の関係性は三つに大別することができる[註1]。
 一つ目は「図示」だ。これは映像が、アーティストが歌い上げる楽曲の歌詞が持つイメージをそのまま映像に反映させる形のものだ。そして二つ目は「増幅」。これは歌詞の与えるイメージそのものではなく、それを補完する形で歌を聴くだけでは判らない更なる情報を映像に上乗せする形のものだ。そして最後が、歌詞から汲み取れるイメージとは関係のない映像を流してしまう「分裂」というものだ。この分類法はシンプルで分かり易いものではあるが、あくまで「映像は歌詞を、ひいては歌を補助するものである」という前提の上に成り立っている。
 ところがリリックビデオにおいては、本来映像とその関係性を比較されるべき歌詞そのものが目に見える形で映像の一部と化してしまっており、映像が歌を支える面を持ちながらも歌そのものが映像を支えているという側面も同時に存在しているため、安易に上記の分類法に当てはめることはできない。したがって、本記事ではリリックビデオを、音楽と映像との関係が双方向であるという点から従来のミュージックビデオよりもその関係性が深化したものと捉えて分析を行いたい。映像の中に落とし込まれた歌詞には、これまではただ耳で聴くだけのものであった歌詞とは異なり、目に見えるが故の新たな役割や価値を獲得したものも多くみられる。次はそのようなリリックビデオ特有の表現の例を挙げていく。


リリックビデオに特有の字幕表現ー作品紹介

 まず一つ目はamazarashi の「季節は次々死んでいく」である。この作品はアニメ「東京喰種√A」のエンディングテーマであり、ミュージックビデオでは「東京喰種√A」の食人種が登場するという世界観に因んで、作中のキャラクターを彷彿とさせる女性が実際に生肉を食すという表現がなされている。そしてその生肉はレーザーカッターで歌詞の形に切り取られているのである。
 二つ目はTori Amosの「Troubles Lamnent」だ。この作品の場合は、絵の具を用いて歌詞がひたすら羊皮紙の上に描かれ、それを延々とカメラが追いかけ続ける形をとっており、その様をアニメーションによってダイナミックに表現されている。
 そして三つ目がサカナクションの「アルクアラウンド」だ。こちらはサカナクションの山口一郎氏が、さまざまな仕掛けを施されたオブジェの横をタイトルの通り歩き続けるというものだ。画面を横切り続けるオブジェは、カメラアングルや立ち位置により特定のタイミングでのみ歌詞の形をなすように計算され配置されている。


リリックビデオに特有の字幕表現ー作品分析

 次は今挙げた作品についての分析を行いたい。まずは一つ目の「季節は次々死んでいく」だ。実はこの作品は、全ての歌詞を生肉として並べ立てているわけではなく、歌詞の中からピックアップされた複数のフレーズを登場させるにとどまっている。つまり、この文字たちに字幕としての役割は無い。この場合、あえて「肉を食べる」という表現に歌詞そのものを一体化させることで、このリリックビデオにおいて楽曲と「東京喰種√A」の世界観とを密接に繋げるという役割を持たせることに成功している。
 二つ目は「Troubles Lamnent」だ。こちらは先ほどとはうってかわって映像のほぼ全てが文字で構成されている。字幕のとしての機能は失っておらず、その上で映像としての役割も全て担っていることになる。もしこれは字幕だからと文字を消してこのミュージックビデオを観ようものなら、ただひたすらに真っ白な羊皮紙をなめるように眺めるだけの時間が流れることとなる。
 ただし画面に映すのが文字だけだからと言って、映像の要素が消えてしまったわけではない。実際に筆を用いているかのような文字の現れ方やその勢い、そして変化し続ける色合いなど「動き」は存在しており、シンプルな作りながら見飽きてしまうようなことは無いからだ。これは初めに述べた「歌詞そのものが映像と一体化してしまっている」良い例ではないだろうか。
 そして最後は「アルクアラウンド」だ。これも一つ目に挙げた「季節は次々死んでいく」と同じように字幕としての機能は一部を除いて薄れてしまっている。歌詞がそもそも視覚化されていない部分や、ある一瞬のタイミングでしか読み取れないような仕掛けが施されている部分があるからだ。ただし冒頭の「僕は歩く」というフレーズが繰り返される部分においてのみ、既に文字として形が完成しているオブジェを提示していることもあって「繰り返している」という感覚を更に強くさせる事に一役買っている。そして肝腎要の仕掛けが施された部分だが、これは歌詞の意味そのものとリンクさせていると捉えることができる。映像の中で歩き続ける山口氏。彼が触れた時、最も近づいた時に言葉たちはその姿を現し、そしてまた消えていく。その様はまさに歌詞の通り「意味を探し求め」、「何かを確かめて」、「解らぬまま」、「また歩き始める」ことに他ならない。そして同時に、歩く中でちらと垣間見えた何かが雑踏に流れて消える儚さと、その未知に早る心情をその様から読み取ることができる。

まとめ

 このようにリリックビデオは、歌詞自体を目に見えるオブジェやアニメーションとして映像内に登場させることで、映像はただ歌を修飾するだけのものではなく互いに補完し合うものとなっている。だからこそこれらの作品は、映像がどのように歌に関与しているかのみを基準とするキース・ニーガスの分類法に当て嵌めることができないのだろう。
 また、近頃は音声合成技術を使用した聞き取れないほど早口なものや聞き馴染みのない言葉を羅列するものなど、映像で歌詞を見せることを前提とした作品も少なくない。この場合、歌を聴いただけでは内容を理解することができないため、本来歌の補助的役割であったはずの映像の方に重きを置かれていると考えることができる。このようなこれまでとは歌と映像の関係が逆転してしまっている作品に対してもまた、これまでとは異なる視点での考察を行うことが今後の課題である。作品の新たな受容の仕方を考えるということは受け手への楽しませ方、ひいては作り手の新たな創作の可能性を模索する事に他ならない。


脚註
[註1]キース・ニーガス著(安田昌弘 訳)『ポピュラー音楽理論入門』、pp.138~139、 水声社、2004年。


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