肯定感と評価

自分は割と自己肯定感は高い方だと感じている。
本当にただのどうしようもないオタクだけど、そんな自分も割と好き。たった一曲のために配信でその一曲だけ買えるのにも関わらず、アルバム一枚買っちゃう自分も好き。なんやかんやで自分のことは好き。
というか、自分で自分のことを大事にしてあげないと如何せん誰からも大事にされなくなってしまう。それこそ全肯定彼女みたいなアダルトビデオみたいなタイトルの存在がいてくれるのであれば話は別だが、悲しい独り身なので自分で自分のことを慰めてあげるほかない。
と、まあそんなこんなで割と自分は好き。

そのくせ、自己評価は低い。
あんなに自分のこと好き♡LOVE!みたいなこと言っておきながら、自分の作るモノとか自分自身に対する評価は馬鹿みたいに低い。
高校に入った時もよく周りには「いや、中学生の頃の俺は天才だったから!」と言っているがマグレで入ったようなモノだった。
なんでも知っているように見えるけれどそれはほとんど実体験を伴わないインターネットからの情報で、要は誰でもアクセスできる知識をさも自分の言葉であるかのようにしてしまうし。
大学で友達がいないのも「大学が苦手」というレッテルを自分に貼ったけど結局はお前が人と話すのが嫌いなだけだろとも思う。
なんせ他者から見た自分は自分の思っている位置より数段高いところにあるように感じることが多いのだ。
人から褒められるのはうれしい。が、なんというか人からもらうその言葉だったり、評価は自分の身には余る。自分の上位互換なんてごまんといるのだから自分なんか評価に値しないように思う。

「周りと比べたって」とかと優しい言葉をかけてくれる人もいるが、元々特別なオンリーワンと歌っている名曲でも、そもそも花屋の店先に並ぶという関門を突破しているわけで。お前はオンリーワンだぜ!と言われるためにはそれ相応のステージに立たないといけない気がする。そして自分にはそのステージを突破するだけの力はない。残念ながら。

「そんなことないよ」待ちだと思われても癪だが、事実私はそんなに偉い人間じゃないと思っている。自分の先輩後輩同輩の持つスキルや考えの方がよっぽど高尚で素晴らしいモノだと思う。隣の芝生はなんとやらだと言われてしまえばそりゃその通りかもしれないが、各人が各々のスキルを磨いている間に自分は何のためにもならないゲームのスキルレベルアップに勤しんでいるわけで。
例えばこれが結果としてゲーマーの道に進みます、それでお金が稼げます、家族も養っていけます!という形になるのであればまあよしとしよう。無駄な時間じゃなかったでしょう。ただそうなるほどの努力はしてなくて、あくまで偏差値52くらいの普通の人よりちょっとだけ頭抜けた状態にしかならない。
ゲームに例えたが、今の自分はこんな感じだと思う。人よりちょぴっとだけ優れてるところはあるかもしれないけれど、それが武器にはなりはしない。けどまあそれもいいのかもしれないとも思っている。もはやこれは肯定ではなくて諦念なのかもしれないと今思った。「どうせ何にもならないんだし」ともうあきらめきっているのかも。それなら肯定感と評価の差も縮まろうに。
多分諦め半分で生きているんだと思います。どうせ何しても無駄だし、死ぬし、なんて。

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