見出し画像

悲しみでアナタが口説けるか

2016年の間、ずっと考えていことがある。

「悲しみ」とは何かということだ。
ウェットな話ではなくて、わりとシンプルな話である。

「悲しみってなんなのよ?」
「イチゴのツブツブのところだよ」
「えっ、あのツブツブが…悲しみ……なの?」
「そうだよ、知らなかったの?」
「そんな大事なこと誰も教えてくれなかった」
「甘えるんじゃない!」バシー
「ったぃ……」
「感じるな、考えろ!」
(んな無茶な)

というような雰囲気の話である。
ピンとくる例えを書こうとしたけれど、失敗したので、気にしないでほしい。


きっかけは橋口亮輔監督の『恋人たち』という、映画を見たことだった。

ボクはこの映画が好きで二度見てしまった。泣いた。DVDも買った。
(『ぐるりのこと』という一つ手前の監督作のほうが好きだけど)
(『この世界の片隅に』のほうが泣いたけど。泣きすぎてびびった)

文化人からも惜しみない賛辞を受けている。

なにせ、パンフレットには、
鈴木敏夫、竹内まりや、大根仁、みうらじゅん、西加奈子、窪美澄、能町みね子らのコメントが並び、
コラムを寄せているのは、角田光代と吉田修一である。

そんな評価の高い映画だけれど、
見終わった後、これはすすめる人を選ぶ映画だなと思った。
なんというか、ひと言で言うと、とても悲しい映画だからだ。
笑えるところはあるけれど、娯楽映画でもない。
というか、なぜこんなに悲しい映画を自分は好きなのか。根暗か。

そこから悲しみについてとめどなく考え始めた。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『奇跡の海』『バベル』なんでもいい。
なんであんな救いのない悲しい映画を人は評価するのか。

その結果、「悲しみ」とはこういうメカニズムで理解できるのではないかと思い至ったのである。
(『恋人たち』については、後で書けたら書くやも)

前置きが長くなったので、結論を急ごう。


結論

悲しみとは何か。

悲しみとは「自分のナニカが失われたときに感じる感情」だ。

もう少し、面倒な書き方をすると、
悲しみとは「モノ・コトへの自分の期待値に対する負のフィードバック」だ。

どういうことか。

1.大事な時計が壊れた。
2.青春を捧げたバンドが解散した。
3.大切な人が死んだ。

これらがなぜ悲しいのかを具体的に説明してみよう。


まず、目に見えるモノ/目に見えないコトに分けて考える。
目に見えるモノだったら話はわりと単純だ。

1.大事な時計が壊れた。

本当に単純。
失われたのは「大事な時計」だ。

逆に大事じゃないものは、失ってもあまり失ってない。
つまり、自分が「期待するモノ」はあまり失われていない、からそんなに悲しくない。
悲しみは失ったモノの期待値に比例して深くなる。

時計に興味がない人は、これでどうだろう。

買ったばかりのアイスクリームが地べたに落ちた。

実に悲しい。


次に、目に見えないコトはすこしややこしい。

2.青春を捧げたバンドが解散した。

ここから失われたのはなにか。
別に、メンバーがこの世からいなくなるわけではない。
楽曲だってこの何年も発表していなかったし、ライブもしばらく行ってない。
(してる場合もあると思うけど、目に見えないモノを考えるためにわかりやすく)
バンドが解散する、つまり終わることで、少なくともそのバンドの存在、そして未来は失われた。他にも失われたものがあるだろう。
終わるということと失うということは近いところにある。
終わればもう与えられることがないということである。

他にも悲しみが深い人、浅い人、人それぞれ答えがあるはずだ。
目に見えないコトの場合は、何が失われているかが人それぞれで、わかりずらい。

青春を捧げたバンドがいない人のために、別の例をだそう。

憧れの先輩から「おまえなんか最低だ」と怒られた。

自信、信頼、平穏など、失われたものが如実にあるはずだ。
悲しい。

逆に、大して信用していない人から怒られても、まあショックはあっても、悲しくはないだろう。
自分に自信がなくて、「オレなんかクズでカスでゴミで最低な人間だ……」と常日頃思っていたら、あまり悲しくはないだろう。
あまり失われるものがないからだ。


3.大切な人が死んでしまった。

これは一番むずかしい。
まず、失われたモノとコトのミックスである。
(まあ、モノはだいたい大なり小なりコトが付随するのだけど)

人ひとりというモノ(肉体や精神活動)が失われる。
その上で、誰が死んだのかによって、失われたコトは違うはずだ。

優しくてちょっとバカな母が事故で死んだのか。
遠くに暮らす祖母が寿命で死んだのか。
愛する娘が猟奇殺人鬼に殺されたのか。

飼っていた猫が死んで、めちゃくちゃ悲しくてボロボロ泣いたのに、
しばらく会えていなかった親類が死んでも、あまり悲しくなかったというようなことは、まあよくある話だろう。

猫は、癒しのペットであり、友人であり、秘密の共有者であり、彼女の一部だった、かもしれない。それがが失われたら、悲しい。
でも、遠くに暮らす親類が死んでも、失われるものはあまりなかったりする。

「自分のナニカが失われたときに感じる感情」と書いたが、「自分の」というのもポイントである。

遠くの国でたくさんの人が死んでも「自分ごと」でないときは悲しみがわかないのだ。なぜなら何も失われていないから。
逆に、悲しい人は、自分の認識するこの世界からたくさんの人が死んだことで、「何が失われているのか」を考えるのは、きっと意義があると思う。
THE YELLOW MONKEYもそう言っている。

この話はもっとあとでくわしく書きたい。


「失う」とはなにか?

では、失えばなんでも悲しいのか。

実はそうではない。
体重が3kg減って悲しいか。多くの人はうれしいだろう。
なぜなら、体重はもっと少なくていいと思っていたから。

「失う」という言葉が、実はちょっと難しい。
失うというのは無くすということではない。
だから、体重を失ったみたいな書き方はあまりしない。

失うというよりは、自分の期待に対して、損なわれるかどうかで、悲しみは決まってくるみたいだ。
なので、正確に書こうとすると、以下のややこしい書き方になってしまう。

悲しみ
≒〈自分のナニカが失われたときに感じる感情〉
≒〈モノ・コトへの自分の期待値に対する負のフィードバック〉


ちなみに、この理屈を応用すると、危険である。
なにも奪わずに失わせて、とても悲しい思いをさせることができる。

たとえば、2ヶ月分のボーナスが今年から支給されると伝えて、期待に胸をふくらませた後に、ボーナスが中止になったと告げれば、
ボーナスであれこれ買おうと期待していたのに…ないのかよ……悲しい!
という悲しみを味わわせることができてしまう。

だから、愛をうそぶく遊び人は罪が深い。
愛しているよとさんざん言ってたのに…まるで愛してなどないじゃない……悲しい!
となるのだから。


というわけで、まずは結論から書いてみました。

長くなったので、この定義がどこからでてきたのか、
ネタ元のお話とどうもこれあってるっぽいなという検証の話は、次回に譲りたいと思います。

個人的な検証として、悲しい時、もしくは誰かが悲しんでいる時、このモノサシがあると分析にすごく役に立ちました。
どうして悲しいのかな? 何を失ったのかな? 目に見えるモノ? 目に見えないコト? 自分の期待するもの、願うもの、望むものから何がどう欠けたのだろう? と考えてみると、少なからず見てくるものがあります。

タイトルは釣りでした。悪しからず。
でもゆくゆく、これもロジカルに説明できたらなと。

あとは、以下のようなことがわかった気がするので、おいおい書いていきたいと思います。眉に唾をつけながら読んでもらえれば。

・悲しみの定義:悲しみの定義のネタ元と検証
・運命の悲しみとは:なぜ『君の名は』では、いきなり泣いているのか
・「悲しみ」を楽しめるか:『恋人たち』レビュー
・悲しみ不全:何を失っているかわからないときが一番悲しい
・悲しみの機能:悲しみがあるといいこと
・悲しみの逃れ方
・哀しみについて:なぜ人を殺してはいけないのか
・怒りと楽しみとはなにか
・さびしさとはなにか
・うれし涙はどうして出るのか


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?