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ゆる言語学ラジオ#4の内容を訂正しようと思ったけども、その前に「部首」の誤解を解きたいと思いました~もうこの単語を学問の場で使わないでください~


この記事のモチベーション

最近以下の動画が話題(のよう)だ。正確にはこの動画の投稿集団が話題で、この動画はその中では比較的地味な方である。

悶・聞・関、部首が「門」なのはどれ? #4
https://www.youtube.com/watch?v=v2vY-H1FAHM

ただ、しかし、この動画で語られることは、漢字に関する誤解に満ちている。正直、どこから突っ込んでいいのやらという感じで、語られる結論が間違っているとかではなく、おそらく話し手たちが根本的に漢字・漢語と文字学(それは知識だけでなく研究伝統・研究史や方法論・考え方を含む)を誤解している。コメント欄も含めて目を覆いたくなる。

例えば、架空の人物が「“人”という字は人と人とが支え合ってるように見えるだろ、お前らもそうやって生きていけよ!」と言うのなら、ふーんあっそという感想になるが、「言語学」を冠して「“人”という字は人と人とが支え合ってできてるんスよ」と語られては(しかもその行為や内容が絶賛されとる!)、いやちがうからと突っ込まざるをえない。だから、この記事で突っ込む。

ただ、一度に全部突っ込もうとしたらそれは難しい。根本的誤解を訂正するとなると結局教科書を書くということとほとんど変わらないことになりそうで、そこまでやるつもりはない(大変な労力だから)。そこで、書けそうなところから少しずつ書いていくことにした。最終的には教科書の分量になるかもしれないが、そこまでまとまりのある文章を書く気はないし、早々にエタるだろう。とにかく、ちゃんとした文章を書こうとすると時間がかかるので、思いつくまま気ままに書いていく。この記事はそんなシリーズの最初の記事。

この記事は誰に向けて書かれているのか。それは謎である。そもそも件の動画視聴者は漢字に興味があるのだろうか。学術的正確性なんてどうでもいいと思っている人がほとんどな気がするのだ(今まで書いた記事に対する反応にもそういうものは多々あった)。そうであっても、文字学の研究方法や研究成果が動画で言われているようなものだと思われるのは、なんとなくよくないことな気がする(少なくともいいことはない)。

というわけで、いろいろ漢字や文字学について書いていこうと思ったのだが、そういうことを語る前に、まず先に、「部首」についての誤解を解いておきたい。このような用語や概念に関する誤解があると、話が通じない。

部首について

実を言うと、「言語学」のシリーズにおいて「部首」が主題になっているという時点で、ああこの人達は漢字に対して誤解しているのだな、と言う気持ちになった。(この記事のように)「部首」がいかに誤解されているかという内容の可能性もあったが、やはりそうではなかった。学問の場で、漢字の成り立ちとか構造とかそういったことについて語る場面で、「部首」という用語を使うべきではない。

僕の言わんとすることは、このページに殆ど書いてある。だが、このサイトは、今から漢字を勉強しようという外国人に向けて書かれたもの(そしてそういう人たちに製品を売り込む目的)なので、ちょくちょくこの記事の文脈にはなじまない記述がある。だから「このページを読め、以上!」ではなく、以下に重要なところを翻訳して引用していく。

「部首」は、文字のしくみを勉強するのにはほとんど役立ちません。辞書において文字を検索するのが「部首」の役割です。

ここの前半は、部首は漢字を勉強(外国人が漢字を習得すること)するのには役立たないということだけを表面上は言っている。深いところまで読むと、「部首」というのは漢字というものを理解するのに役立たない、というか学術的な役割はない、と言っている。なぜなら、「部首」は辞書のためだけに存在する概念だからである。

一つの文字は、構成要素をいくつ有していても、一つの「部首」しか持ちません。どの構成要素が「部首」にの役割を果たすかは、各辞書の編纂者に任されているため、それは辞書によって異なっている場合もあります。

「部首」は辞書のためだけに存在するため、辞書の編集者が自由気ままに扱うことができる。そんなものは漢字の理解にはつながらない(有害でさえある)。

したがって、「部首」について話すのならば、その会話の話題は辞書を引くことが主であるべきです。漢字の仕組みや語源/字源についての会話ならば、音や意味の構成要素の話になるはずです。

したがって当然、「部首」という用語は漢字を分析する際に登場するべきものではない。漢字の話を(学問として)するなら「部首」という言葉を持ち出さないでください。

そもそも部首とはなんですか?
……「部首」とは文字通り「部門のアタマ(section head)」を指します。漢字辞書は、伝統的に、『説文』に倣って、同様の見た目上の構成要素をもつものをあつめたセクションによって成り立っています。このセクションを中国語で「部」といいます。そのセクションの最初の文字を「部首」(部門のアタマ、部の先頭にある漢字)と呼びます。それぞれの漢字は……ある部(セクション)の下に整理されています。これは漢字辞書の編集者が選んだもので、漢字に生来備わった性質の一部ではありません。

ここでは部首の全てが説明されている。部首というのは、ある特定の漢字のことである。「部首」という用語を「漢字の構成要素、また、その中で特に何らかの特殊な役割を持ったもの」であるかのように使っている人がいるが、誤用である。というか、このような定義付けできる誤用をしている人はマシなほうで、どうも、インターネットコンテンツを検索する限り「部首」という用語は十人十色思い思いのあるいはその場その場の不思議な意味で使われているようであり、単語の使用自体が混乱の元だ。

「部首」(部門のアタマ)という言葉の構成は「部長」とほとんど同じである。部門に所属している人の中から誰か一人が「部長」に任命される。学校の部活のことを考えよう。サッカー部員の中から誰か一人が「部長」になる。各サッカー部員のアイデンティティを構成するなにか――「サッカープレイヤー要素」を「部長」と呼ぶことは誤用だし、混乱の元である。また、サッカー部になるべくして生まれた人間というのは存在せず、サッカー部以外の部活に入ってもいい、それは法律とか人間の摂理とかいった何らかの決まりに抵触しない。

漢字をどの部に分類するかというのは、とても恣意的な決定です。多くの人は「部首は意味に関するヒントを与え、声符は音に関するヒントを与える、そしてこの2つは別々の存在である」と考えているようですが、必ずしもそうであるとは限りません。……直感的には、「部首」は一貫した方法で割り当てられているように思われますが、同じ構造を持つ字であっても「部首」の割り当て方が非常に行き当たりばったりであることがあります。

原文では、「到」字は「至」が意味にまつわる部分・「刀」が発音にまつわる部分であるが「刀部」に属す(←辞書によるが)、といった例を挙げて、これがいかに恣意的・場当たり的なものであるかを示している。「多くの人」は、こうした例を「規則に反した例外、イレギュラーなもの」と考えているようである。しかし、そうではない。漢字の各構成要素がどういった機能を果たしているかは、「部首」とは関係がない。

一応書いておくと、『説文』は形声文字はすべて意符の部に収めることを目指していたが、結局それは非合理的なことであり、その目論見に従う辞書は以降あらわれなかった。

「部首」に決まりはなく、各辞書が勝手にやっている。このことを「オムライスを卵料理に分類するか米料理に分類するか、それぞれの料理本によって違うのと同じ」とたとえる人もいるが、これはいい例えである。どう分類するのかについて決まりに即しているとか、正しいとかいったものはない。またオムライスを「卵料理」に分類した料理本は、「米料理」に分類するのは間違いだとか、オムライスは卵のほうがメインであるべきとか、そういう主張をしているわけでもない。


動画へのツッコミ

動画内の、「部首」に関連する発言についてツッコミを入れていく。それを通して部首に関する誤解が具体的に解決されたい。

(1:00あたりのセリフ)
部首って言われてどんなイメージ?
漢字の「へん」「つくり」とか…パーツですよね?
そうですよね、パーツ。
部首って「へん」とか「つくり」とか「かまえ」とか「かんむり」とかあるんですけど……

そうではない。「へん」「つくり」「かまえ」「かんむり」はパーツ(漢字を構成する要素)であるが、部首はパーツではない。

(1:20あたり)
部首と、そうじゃない部分の違い

部首はパーツではないので、「そうである部分」「そうでない部分」という概念は存在しない。

(1:45あたり)
部首は「さんずい」で「青」は部首じゃない
「青」(部首でない部分)は何なのか?

「さんずい」も部首ではない。「清」字の部首はふつう「水」字である、しかしこれは辞書による。

(2:00あたり)
部首は意味を決める部分

というのが「多くの人」の誤解である。

(7:28あたり)
部首の決まり方
・意味の大部分を占める
・音に関係しない

このような決まりはない。

辞書によって「部首」が異なるということだけは、動画の最後に補足的な説明がされている。しかし、

(16:32あたり)
漢字研究の知見に則った部首の辞書もある

これは「決まり」があるという「多くの人」の誤解に基づいている。「部首」は漢字研究の知見に則っているわけではない。

注目すべきは、この動画は、漢字を意味にまつわる部分・発音にまつわる部分に分けて説明しているが、ならば、漢字が「意味にまつわる部分」「発音にまつわる部分」に分けられることだけを説明すればよいということである。つまり、それをわざわざ「部首」と「部首でない部分」と呼び直してしまうことが、混乱のもとであるし、そこに言語学的な意味を見出すことができない。


(3:54)
皆「部首かどうか」を気にしてない

それでいい。それがいい。ここで気にすべきは、漢字がどのような構成要素からなっていて、それぞれがどういう機能を果たしているか、である。


つづきはこちら
https://note.com/nkay/n/n52fb6d7c6fd3

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