見出し画像

感情が動かない

 入居の翌日、母がどんなか気になるので、様子を見がてら会いに行こうと施設に電話をいれました。何時ごろに行くのがよいのか、施設側の都合のいい時間帯を聞くつもりでしたが、予想外の返事。慣れるまでは来ない方がいいというのです。
 「帰ると言われた時にお母さんに勝てますか?」
言われるまでもありません。もちろん勝てません。母は自分の意志で行動する人。その母が帰ると言ったら逆らうのはほぼ無理。絶対に無理。まちがいなく私は負けます。母の意志には逆らえず、どんなに渋々であっても受け入れざるをえないはず。
 「それなら来ない方がいいです。様子はお知らせしますから」新しい生活に慣れて落ち着くまでは家族に会わないほうがいい。確かにそうだと思いました。
 母が私の手から離れた。施設に丸ごと受け入れられた。実感しました。でも、安堵もなければ、解放感もない。寂しさもない。感情がまったく反応しない。
 母のベッドのシーツや枕カバーを変えて、部屋を整えた時だけ、気持ちがすこし揺れました。ほんの少しだけしんみりしました。主のいなくなった部屋がひっそりと静まりかえって、空気も冷たく黒々として、寂しがってるように感じたからです。
 そういえば母の乗った車が動き始めた時も、私の感情はほとんど反応しませんでした。不思議なくらい何も感じませんでした。洗濯物を干し終えたとか、食後の洗い物が終わったという程度の日常のひとつにしか感じなかったのです。
 施設に送り出すというひと仕事がなんとか終わった。区切りがついた。でもまたすぐに次の仕事が待ち受けている。介護というのは連続性。今は流れの中の通過点。そんな感じで受けとめました。
 母をだますような形で送り出したわけですから、後ろめたさは残るかもしれないと覚悟していました。ところが予測した罪悪感は、まったくありませんでした。
 母がいなくなったのに、感情が反応しないのは、無意識のしばりがあったからかもしれません。
 母の介護は最優先すべき私の仕事。二月末から三月にかけて、どうしても東京に帰らなければならない用事があるから、一時的に施設に依頼しただけ。決して投げ出したわけではない。三月末に帰宅すればすぐに母をひきとって再び介護生活をはじめるのだから、感情が動かないのはあたりまえ。解放感や達成感がないのも当然のこと。無意識にそう思ってしまった可能性もあります。
 入居後は毎日会いに行くつもりでした。それが自分の新たな仕事。決して母から解放されたわけではない。そのせいで感情が反応しなかったのかもしれません。
 一本の道が目の前に長くのびている。母を連れてそこを歩いて行くのが私の役目。母の居場所がかわり、私の受けもつ介護の質が変わっただけで、これから先も介護はつづく。そんな感じで思っていました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?