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近藤誠医師 がん放置説⑤
放置するのは楽だから
近藤さんの唱える放置療法を選択すれば、何もしないわけだから、病院に通わず、治療を受けず、健康なときと同じ日々をすごすことができます。
時間をとられない。お金もかからない。体調を崩すこともなく、不調も感じない。普通の暮らしが普通にできて痛くもかゆくもなんともない。
患者にとって肉体的にも経済的にも負担が皆無のこの方法は、なんと魅力的なことでしょう。仕事の点でも、暮らしの点でも、都合がいいことこの上ない。こんなに楽なことはありません。
『患者よ、がんと闘うな』を読んだ私は、がんは怖くないと思ってしまいました。治療を受けずに放置すれば、がんに苦しめられることもなく天寿をまっとうできる。近藤さんがそう言うのだからそうなのだろうと思いこんでしまいました。
患者はがんに殺されるのでなく、抗がん剤で殺される。そう書かれていたから、無治療を選べば楽に死ねると思ったのです。
私たち素人には、がんの治療をうけずに放置した先の悲惨な症状が見えません。私は「腹水」という言葉も知らず、重篤になると足がむくんで腫れあがる場合があることも知りませんでした。
がんと診断されたものの、今はまだ不調を感じず、元気いっぱいでちゃんと生活できている。仕事もふつうにこなしている。この快調が明日もあさっても、一年先も、続く気がする。それが放置を選択する時点での患者の立ち位置です。
寝耳に水のがん告知を受けて暗澹たる思いにおちいったときに、がんは放置してよい、むしろ放置したほうが良いとまで専門家に明言されれば、朗報以外のなにものでもありません。
悲劇から逃れた気分。その気になって、放置する人は多いはず。私もソレでした。がんの「先」に待ち受けるものを知らず、自分の「今」しか見えなかったからです。
一方の治療推進派、手術や抗がん剤で治療すべきだと勧める医師たちは、先を見越した発想をしています。
放置したままにしておくと、進行しない「がんもどき」が存在するにしても、大半のがんは進行する。患者は激しい痛みや体調悪化で苦しみはじめる。そうなると取り返しがつかない。早い時点で治療を受けていればと、後悔しても後の祭り。
私も近藤説を信じて放置し、延々と続く不正出血に苦しめられました。生理なら数日で終わりが来るけれど、不正出血には終わりがない。出血の量も徐々に増える。常に湿気た状態だからただれて不快なかゆみが出るし、かゆみを通りこして痛みが出る。放置療法にはそうした症状に対処する手だてがありません。自分で我慢するしかないのです。
放置した結果の手遅れの患者さんたちをたくさん診ていれば、医者としては近藤さんの放置説に反対せずにはいられないでしょう。そして手遅れにならないうちにと手術や抗がん剤の治療をすすめる。
しかし今しか見えない患者には、元気なうちはそのことが理解しにくい。手術はまだしも抗がん剤となると激しい副作用のほうが怖い。近藤さんも「抗がん剤は延命効果より縮命効果」と言いきっています。
世間でもイメージ的に「がんは怖い」と思われています。でも我々一般人は本当のがんの怖さを知りません。
がんの実態は知らないけれども、嘔吐がつづく抗がん剤の悲惨さは映像としてインプットされています。知らない怖さと知っている怖さ。知っている怖さに軍配はあがります。「抗がん剤は毒薬」と近藤さんに言われると、やっぱりそうかと納得します。簡単にコロッと信じてしまえるのです。
放置した先に待っているのは、死です。それは近藤さんも言っています。私も自分の死を意識しました。しかしそれは頭で思い描くだけの抽象的な死。悲惨さの伴わない、観念でしかない死です。
治療を受けずにがんを放置して死ぬ。生にしがみつくことを恥ずかしいと感じていた私には、放置のあげくの死が荘厳で美しいものに思えました。医者に頼ることもなく、自分ひとりで引き受ける死だからです。
現実には治療を選択して、私は医者の力を借りることになってしまいました。治療を受けられたのはありがたかったと思っています。おかげで今も元気でいられます。
感謝しているにもかかわらず、心のどこかで、それをよしとしない自分がいるのも事実です。野生動物の孤独な死。それを理想のように感じるからかもしれません。美化しているだけかもしれませんが。
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