近藤誠医師 がん放置説④
近藤説を信じる原因のひとつは無知
自分ががんになるまで、私は「がんは死に至る病」だと思いこんでいました。誰かががんになったと聞くと、遅かれ早かれその人はがんで死ぬのだろうと思ったものです。
がんには様々な種類があると知ったのも、必ずしも死病ではないと知ったのも、自分ががんになってからでした。
がんと無縁に生活している一般の人は、私もふくめて、ひどく無知だと思います。私は「初発のがん」と「再発がん」の違いも知りませんでした。がんは大病であるというひとくくりの深刻なイメージでしか把握していなかったのです。
原因についても同様。がんになる原因は今でも判明していないそうです。いつ誰がどんな原因でがんになるのか特定の因子が判明していないらしい。それなのに私は、がんの原因はストレスだと思いこみ、ストレスの多い人が、がんにかかるのだろうと思っていました。それを根拠に、自分はがんにならないつもりでいたのです。
近藤誠説を信じてしまう要素はいろいろあります。無知であることも近藤さんを信じてしまう一因です。
金儲け主義のトンデモ医療にはうさん臭さを感じて、冷静な目をたもてても、近藤誠さんの放置説にはだまされやすい。理性に訴えかけてくる説得力があるからです。文章も内容も知的なのです。
患者をまどわす点ではトンデモ医療と言えますが、近藤さんの場合には、金儲けが目的ではありません。それだけは歴然としています。彼のベースにあるのは怒りです。激しい怒り。そしてこの現状をなんとか改善したいという強い思いです。
そのため近藤さんの文章からは、清々しい正義感が伝わってきます。医者であることにあぐらをかいた医学界にたいする強い義憤が届いてきます。
医者や医療に不信感をもつ読者は、彼の義憤をキャッチします。そうだ、その通りだと心から共感し、彼の説をすんなりと信じてしまう。会ったこともない人なのに、彼を信じてがんを放置するのが最善だと思ってしまうくらい、信頼感がわくのです。
近藤さんは論文やデータも引用しています。単なる主観だけの医療否定ではない。しっかりとした裏付けがある。この人の言うことは信じられる。素人はそう感じます。
しかも彼は慶応医学部の講師であり、慶応病院で臨床をしている医者でした。がん治療の中枢からの、治療否定の発信なのです。信頼に足る権威に裏打ちされている。これも彼の説を信じてしまう一因です。
近藤さんは「抗がん剤は効かない」と明言します。百害あって一利なしと断定します。抗がん剤は寿命を縮めるとまで言い、延命ではなく縮命だと言いきります。
近藤説を鵜呑みにしていた私は手術後の抗がん剤治療を受けた後も、かなりの期間、抗がん剤のせいで自分のいのちが縮んだと思いこんでいたものでした。主治医に違うと指摘され、洗脳されすぎていると言われるまで、自分の寿命は抗がん剤で短縮されたと本気で思っていたのです。
患者の体力をうばう手術にも、近藤さんは反対しています。手術をすればがん細胞が飛び散るからかえって危険だと断言します。がんに関して無知だった私はそれを頭から信じました。
専門家中の専門家の発言には強い説得力がありました。近藤説が間違っていると知った今でも、ふとした時に心が揺れてしまいます。
近藤説が全面否定されることに微妙な違和感がわいて、近藤さんを擁護したくなるのです。
近藤説を信じてトンデモ医療を受けたという人の体験談をテレビで見た時は、怒りを感じました。近藤さんを本気で信じるなら無治療の放置でしょ。放置もせずにトンデモ医療に走っておいて、都合よく近藤さんの名前を使って弁解しないでくださいよと言いたくなったものでした。
私は理性だけでなく、感情面でも近藤さんを信じ、親近感をもっていたのだと思います。それが今でも体の奥にしみこんだまま残っているのを感じます。それほど強い影響力があったということなのでしょう。