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【蓮ノ空感想文】さやかの答え:「他者の期待に応える」の本当の意味とは?

はじめに

 リンクラ103期活動記録12話『期待はおもい!』は、さやかが沙知の試練を通してラブライブ!に出場する理由、ひいてはスクールアイドルに取り組む理由として「他者の期待に応えたい」という答えを見出した最重要回だった。そして、活動記録公開後の10月度Fes×Liveにおいて、さやかの見出した答えの証明としてソロ楽曲「Runway」を披露した。
 その感動については今更言を俟たないが、敢えてここでさやかの見出した答えをもう少し掘り下げて考察し、解像度を高めたい。それは沙知が語った、「結局、綴理やメンバー、応援してくれる誰かに理由を押し付けているだけなんじゃないか?」(12話PART8 09m37s)という問いかけとの関係である。
 正直に言えば、私はさやかが見出した答えがどのように沙知に反論できるのかがピンと来ていなかった。しかし、先般実施された蓮ノ空2ndライブ千葉公演に参戦するに際し、改めて12話をもう一度見直して考え直したところ、沙知の指摘した在り方とさやかの見出した答えには厳然とした違いがあると理解できた。(そのために「Runway」は何倍も感動できた)
 本書はそれについての考え・感想をまとめたものである。「他者の期待に応えたい」という言葉に込めたさやかの思いをより克明に感じ取るため、本書を公開し、「蓮ノ空のこと好き好きクラブのみなさん」各々の大好きが溢れる「#蓮ノ空感想文」の末席に名を連ねることとしたい。


1 さやかが沙知に決意を語るまでの経緯

 ラブライブ地区予選を控えスクールアイドルクラブ一丸となって練習に励む中、部長の梢が思わぬ高熱に倒れ、急遽さやかが「リーダー代理」として暫定的に指揮権を行使することに。リーダー代理の大仕事として、ラブライブ地区予選エントリーも兼ねた竜胆祭のステージ使用許可を求めに生徒会長の沙知に面会したところ、沙知は許可を出す条件として1年生3人に試練を課す。それは「ラブライブ出場が自分の内発的な動機に由来するものか?」「尊敬する先輩を自分が頑張る言い訳にしていないか?」を厳しく問うものだった。

沙知の意図には、最初の試練であるチラシ配りの段階で気づけていた

 具体的な課題として設定されたチラシ配りや宣伝動画撮影を通して、花帆と瑠璃乃は「花咲きたい」「楽しいことをしたい」というそれぞれの内発的な動機に根差した答えを語ることができたが、さやかは十分に語ることができず、沙知からラブライブ!に出場する理由を考える前提として「なぜスクールアイドルをやるのか答えられるか」と最後の試練を言い渡される。考え抜いた末さやかは「期待に応えたい、そのためにライブをしたい」という答えを沙知に提示した。
 すると沙知は、次のように問いかける。(上記「はじめに」で紹介した言葉の再掲になるが)

 さやかが紡ぎ出した答えに照らしても、なおそこには自己に内在する動機がなく、他人・周囲を自分の活動の言い訳に利用しているにすぎないのではないかと指摘したのである。

2 他者の期待に応えることは「頑張る理由を他者に押し付けている」ことなのか?

 しかし、沙知のこの指摘は本当に自明なのだろうか?ならば物事に向き合うに際し「誰かの期待に応えたい」と思うこと自体は等しく、内発的な動機が何ら存在し得ず他人を言い訳にする類のものなのだろうか?当然そういう話ではないだろう。沙知の言葉の意図と、さやかの答えの本質をより深く理解するために、今から沙知に語った「私は他者の期待に応えたい」という姿勢を深掘りして考察していきたい。

 深掘りの視点は具体的に下記の二点であると考える。
(1)「私」という主語の意味次第で「期待に応える」の重みが変わりうること
(2)「期待に応える」の前提条件によって、本質的に受動的な姿勢か能動的な姿勢かが決せられること
 後記(1)以降で、それぞれについて詳述することとする。

(1)「私」の意味:他者の期待に応える条件とは?

 まず、「私は他者の期待に応えたい」に含まれる「私」という主語には、さやかの立場を踏まえると次のとおり複数の意味合いが含まれる。

ア 夕霧綴理とペアを組む村野さやか
(その他、「「DOLLCHESTRA」というユニットに所属する村野さやか」「「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」に所属する村野さやか」等も想定される)
イ (あらゆる場面における一切の留保・条件のない)村野さやか自身

 いずれの立場に立ったとしても、一応の主語は共通して「私」と言い表すことが可能だが、どの立場をとるかで「期待に応えたい」の意味が大きく変わりうる。それは「他者からの期待に応える責任を負う場面が限定されているか、そうでないか」の違いである。

 「私」の趣旨が仮に「夕霧綴理とペアを組む村野さやか」だった場合、勿論さやか自身も期待に応える責任を負うのだが、その場面は「夕霧綴理という他者」と一緒にいる場面に限定される。言い換えれば、「それ以外の」さやかは期待に応える責任からは解放されるわけだ。自分が期待に応える前提条件が「夕霧綴理と一緒にいるさやか」に限られる以上は、それは結局のところ自分が期待に応える理由を「夕霧綴理という他者」に負わせているのと同じなのである。

 これが前記イのとおり一切の留保・条件のない「村野さやか」であれば、先述した期待に応える前提条件なるものはおよそ存在せず、いついかなる場面であっても期待に応えるという責任が生じる。当然のことながら、そこには「期待に応える」という責任の履行において他者を言い訳にする場面は生じない。

 「期待に応える責任を負う条件があるか(前記ア)・ないか(前記イ)」という視点で考えると、当然ながら期待に応えない言い訳が許されない後者が難しく、その分だけ自らが背負うことになる期待はいっそう重みを帯びる。自分自身の内発的な動機から「期待に応える」という行為それ自体に大きなモチベーションを持っているのでもなければ、そのような重さに応えようとは到底思えない・できないのではないだろうか。

 続いて、(2)の議論に移りたい。

(2)「期待に応える」の前提条件:期待を待つのか、それとも集めに行くのか?

 「他者の期待に応えたい」という姿勢は言い換えれば「自分のモチベーションのトリガーが他者」ということだが、「そのトリガーが引かれるまでにおいてはどういう姿勢か?」という視点に立つと、全く方向性の異なる次の二つの姿勢が考えられる。
ア 「他者から期待されるのを受動的に待つ」という姿勢
イ 「他者からの期待を能動的に集めに行く」という姿勢

 言わずもがな、前者は受動的だが、後者は能動的である。これも前記(1)同様、アとイのどちらも「他者の期待に応えたい」という共通の言葉で包含できてしまう。なぜなら両者とも「他者の期待」が自分に向けられるまでの前提についての姿勢の違いであり、「期待に応えたい」という姿勢自体は両者共通しているからだ。しかし、この前提条件がどちらかによって「他者の期待に応えたい」という姿勢の性質自体が根本的に大きく異なってしまうのである。

 「期待に応えたい」の趣旨がアだとすればどうか。期待という他者からの働きかけがなければ自分からは何もしない。専ら他者(=さやかにとっての綴理、同期、クラスメイト、応援してくれる人たち)の働きかけがない限りは自分は頑張れません、と言っているに等しいのだ。単に待つだけであれば誰でもできる。「期待に応える」姿勢自体はありつつもそのトリガーの発動をただ待ち続けているだけである以上、結局のところこの姿勢はまさしく「他者に頑張る理由を押し付けている」に他ならない。

 一方で趣旨がイだとすればどうなるか。前記アとは大きく様相を異なる。なるほど他者から期待されなければ自分は頑張れないのかもしれないが、しかし頑張るトリガーである「他者からの期待」を積極的に集めようとしているのである。これは「他者を言い訳にしている」のか?そうではない。一向に期待が降ってこないのだとすれば、集めるために自分の意思で動くしかないのだ。期待を常に集め続けようとする、それは誰にでもできるような並大抵のことではない。期待を集めること、その目的である「期待に応えること」それ自体に自分の内発的な動機でもない限りは不可能に等しいのだ。

(3)さやかの答え:「自分から期待を集めて、どんなときでも期待に応える」

 以上(1)(2)で確認した相違点を踏まえ、改めて冒頭の問いに戻る。

 「「他者の期待に応える」ことは、「頑張る理由を誰かに押し付けている」のか?」

 この問いへの答えは「そういえるし、そういえない」である。やはり沙知の言葉は部分的には正しかった。しかし自明などでは決してなく、頑張る理由を他人に任せにしない在り方が確固として存在するということだ。
 すなわち、
期待に応えるべき場面に条件を付し、期待されるのをただ待つにすぎない受動的な在り方であれば、それは本質的に自らの欲求に基づくものではなく、「他者に頑張る理由を押し付けている」ことにほかならない(=沙知の指摘は当てはまる)
・一方で、期待に応えるべき状況に何ら制約を付さず、期待されるのを待つだけでなく自分から積極的に集めに行くという能動的な在り方であれば、それは「他者に頑張る理由を押し付け」てはおらず、内発的な動機に基づく姿勢だといえる(=沙知の指摘は当てはまらない)
 ということである。

 沙知は、さやかの言葉の意味が前者ではないかと口で指摘しつつ、その気迫と覚悟から(後者まで踏み込むかは分からないが)少なくとも前者の趣旨ではないのだろうと考えて、ならばその在り方を見定めようとステージに上がることを許したのではないか。

 さやかは、「期待に応えたい」という自分の見出した答えが単に前者にとどまる消極的なものなのか、それとも後者にまで踏み込んだ積極的なものなのかの言語化に苦しんだからこそ「口では、説明しきる自信がなくて」(12話PART8 09m07s)と零し、言葉だけでは前者と後者を区別できないがために沙知の指摘に対し「そう言われることは分かっていました」(12話PART8 09m48s)と応じたのではないか。
 しかし、自分の在り方は決して前者にとどまるものではなく、後者に踏み込んだものであることは心の奥底で十分に自覚していて、これこそが村野さやか自身の「内発的な動機」だということに絶対の確信を持っていたのであり、そのことを行動で証明しようとした。
 
 すなわち、
・「DOLLCHESTRA」としてではなく、「村野さやか」として出ること。
 自分は夕霧綴理と一緒にいる時にしか誰かの期待に応えるわけでもなければ、夕霧綴理という天才を隠れ蓑に虎の威を借るわけでもない。いかなる留保・前提もない「村野さやか」という人間それ自体に期待の重みが集まることを欲している旨を証明するために、たった一人でステージに上がったのである。
・竜胆祭でライブをすること(それ自体)。
 ライブにする目的は、自分がライブで魅力を提示することで「期待を集めに行く」ことである。自分は座してただ期待されるのを待っている人間ではない。期待してくれないのだとすれば、期待してくれるように行動する。自分が他者の期待を受けるに値する人間だということを証明する。その究極の手段がライブであり、スクールアイドル活動なのである。

 それは、村野さやかの強い覚悟の表れに他ならない。しかし、単なる義務感に終始しているものでは決してない。「他者からの期待を自分の原動力とする」というさやからしさ、さやか自身の内発的な動機・内在する渇望をより本気で実現するための覚悟である。まさに、「自分のやりたいこと」の実現の究極ではないだろうか。

「その重さが欲しかった」という言葉が示唆的

3 さやかの答えと「Runway」:2ndライブの感想を添えて

 このように「私は他者の期待に応えたい」と語ったさやかの決意の意味と覚悟を理解したうえで、改めて竜胆祭のステージでさやかが披露した「Runway」の歌詞を見ると、まさに上記で確認した意味合いが克明に示されているのである。

いまそのまなざしが 勇気をくれるの
だから返すよ 今日よりも眩しくなって

村野さやか「Runway」

 ラスサビ前の一節。綴理、スクールアイドルクラブのみんな、応援してくれる同級生や周囲の人々の期待を込めたまなざしこそが自分が頑張るトリガーとなる。他ならぬ自分自身がさらに成長してさらに魅力を高めて、その期待に応えたい。そうした並々ならぬ覚悟と思いの強さがこの一節に込められているのではないだろうか。
 勿論この一節に限らず、「Runway」の他の部分にも、さやかが言語化に苦しみながら見つけ出した自分の答えと覚悟が表れている。「Runway」は言うまでもなく、今後の村野さやかを基礎づけた大切な曲であるとの思いを新たにした。

 その曲のもたらす感動については言を俟たない。4月20日・21日に実施された2ndライブ千葉公演は両日配信で参加したが、そこで村野さやか役の野中ここなさんが魅せた「Runway」は、まさしく今まで本書で確認してきたさやかの覚悟・思いを余すことなく十二分に表現するものだった。本当に心が震えたし、さやかの苦悩と覚悟が克明に感じられるようで、聞いていて涙が止まらなかった。

4 補遺:梢の気づき

 本論とは若干逸れるが、さやかが自分の答えを見いだす過程では梢の存在も無視するわけにはいかない。梢から見たさやか、梢が気づいたことについても、ほんの若干だが触れておきたい。
 さやかが答えを中々言語化できず梢に相談したときに、梢は自分で考えるしかないといいつつ、最後に「やっぱりあなたは、スクールアイドルを続ける理由・・・・・・見つけているわ。」(12話PART8 06m04s)と呟いたが、具体的に何に気づいたのだろうか?
梢がこう述べたきっかけは、直前の以下のやり取りである。

 さやかが抱えていた仕事を巻き取ろうとしたにもかかわらず、さやかから断られている。
 元はといえば梢が倒れたことで急遽部長の職務を一部代行することになったのだから、梢が戻った以上その必要もない。自分の答えを見つけるという難題の解決に集中し、仕事の続きは梢に引き取ってもらっても何らおかしくなかった。
 にもかかわらずさやかはなぜ「最後までやらせてください」と梢の提案を断ったのか。それは、さやか自身に課せられた「リーダー代理」という期待に応えたいというさやかの強い願いがあったからではないか。
 さやかは条件や場面を選んで期待に応えようとしているのではない。綴理の世話からリーダー代理まで、どんなときでも自分から積極的に他者からの期待を集め、それに応えることに喜びを見いだしているということ。これこそがさやかの内発的な動機であり、スクールアイドル活動をする理由の核心に違いないと、このときのさやかの姿勢で梢は確信したのではないだろうか。


5 おわりに

 以上、さやかの見出した「誰かの期待に応えたい」の意味するところを沙知の指摘との関係を踏まえて詳論し、併せてさやかの答えが具現化した「Runway」の感想を書き連ねた。
 活動記録には本書で紹介したさやかの覚悟以外にも、様々な感動を呼ぶストーリーが多々存在する。それは花帆・さやか・梢・綴理・瑠璃乃・慈、そして今月からは吟子・小鈴・姫芽の全員各々について存在するのだ。私は、リンクラの活動記録は「人間の生き様・感情に真摯に向き合った作品」だと考えている。104期を迎えて装いを新たにした活動記録にこれからも向き合い、新しい「生き様・感情」を感じ取っていきたい。
 
 末筆ながら、これからも蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブの18人が更なる飛躍と成功を遂げられることを心からお祈りし、そのためにこれからも応援し続けます。


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