差別は人の心の中ではなく、現実にある

この世は差別で溢れている。昨今のニュースを見ているとそう思わざるをえない。

沖縄の高江には、日本全国の警官が小さな集落の住民を痛めつけに数百人も集まる。チームメイトと共にいつものようにマウンドに立った野球部の女子マネージャーは慌てて叩き出される。ゲイであることをグループラインで暴露された青年は自ら命を絶った。

これらのできごとをすべて差別という語に結びつけると、差別とは何なのかがよくわからなくなる人も多いかもしれない。

この、「差別とは何か」が多くの人にとって曖昧で、あまり考察されていないことが、大きな問題なのではないかと思う。

一生懸命考えようとしても、この世間では考える土台すら見つけることが困難で、「考え方」を間違えてしまうことも多々ある。

多くの人が考え方を間違えるのが、差別を各人の「気持ち」や「言動」だと思ってしまうことではないか。

よくある言い方で、「誰の心にも差別はある」などと言われると、誠実な人は懸命に自省しようとするだろうけれど、それでいてどうやってそれに対処したらいいのか、どう向き合えばいいのかわからず、混乱してしまう。

差別は現実社会にある構造上の問題

誰か個人が他の個人を軽蔑することや、攻撃することは、差別の二次的な要素にすぎないと思う。

構造的に、ある属性(人種、性別やセクシャリティ、病気や障害、地域、経歴など…他にもいろいろ)を持つ人たちがその属性ゆえに不利益を受ける仕組みになっていることが、差別の本質だ。

この不利益というのは、明確に言うと、生存を妨害されることだ。職を得られず経済的に困難な状況に置かれたり、住居を奪われたり、日常生活を阻害されたり、健康被害や暴力を受けたりすることなどが当てはまる。

余剰的なサービスを受けて得している人がいるのに、自分はそれを受けられない、というのは不公平かもしれないが差別とまではいえない。それが積み重なって生存を脅かすほどのものになれば、差別といっていいと思う。

もしあなたが何らかの属性が理由で、「この社会で自分は生きていけないかもしれない」と不安に思ったことがあれば、被差別者である可能性は高い。思い当たることがある人は、けっこう多いんじゃないかと思う。

例えば病気になって働けなくなり、手当の制度などからも抜け落ち、窮地に陥る人がいるのは、病者が生きていける仕組みが整っていないという意味で病者差別だ。

差別は私たちの暮らす現実にすでに組み込まれている。私たち個人のレベルで「差別する・しない」なんてことはできようもない。

差別に対してできること

ならば、私たちには何ができるのか。

まず一つ目は、差別を問題視すること

「そういう社会になっているから仕方ない」では済まされない。そういう仕組みは変えなければならないという意識を持つことが大切だ。

二つ目は、差別を肯定し助長するような言動を取らないこと

差別をきちんと問題視することができていないと、これをしてしまう。

自分の生きている現状に問題があると認めるのは、勇気やエネルギーのいることだ。それを認めず差別問題から目をそらそうとする時、〈被差別者には何か報いを受ける理由があるはずだと思い込む〉〈被差別者は悪人だというデマを信じる〉〈被害をよくあることと矮小化する〉などの言動をとってしまう。

その方向へ思い込みが突き進むと、やがて被差別者への憎しみを募らせ、加害に走ることさえある。これをヘイトスピーチやヘイトクライムという。

しかしヘイトスピーチやヘイトクライム自体が差別だと認識してしまうと、まるで対等な立場同士で喧嘩をしているような誤解が生まれ、「どっちもどっち」だとか「中立」と言い出す人もいる。

しかし、ヘイトの加害者と被害者はそもそも社会構造の中で平等に扱われていない。その真ん中に立って中立と言うことは、被害を矮小化することと同じであり、差別から目をそらし見ないようにする行為だ。

最後に、できる範囲で差別に反対する意志を示していくこと

自分の気持ちや理解と一致すると思ったならば、デモや抗議行動に参加してみるのもいいと思う。

しかし、もっと日常的にできることもある。誰かが差別を肯定するような発言をした時、自分はそうは思わない、と否定すること。家族や友人と、差別的だと思う制度や仕組み・習慣について話し合ってみること。

それらもとても勇気のいることだ。それは違う、と言いたいのに言えないことは誰にでもあるだろう。

すぐにアクションできなくてもいい。できる範囲でかまわない。常日頃から、どんな人が社会の中で弱められ、痛めつけられているかに注目するようにしていれば、自ずと意志を示すチャンスはやってくる。

それに、選挙の時に差別問題を解消するための政策を打ち出している候補に投票するのも、できることの一つだ。

それまで自分が気づいていなかった差別が社会にあることに気づくこともある。気づかないうちに、その差別的仕組みを肯定するような言動を取っていることもあるだろう。

すべての差別問題に対して適切な態度を取ることはなかなか難しいことかもしれないけれど、それは「人は心の中で必ず誰かを差別していて、それからは逃れられない」などということではない。誰の心にもある悪意のようなものとは意味合いが違う。

すべての差別を肯定しないように努力することはできるし、もし一度何らかの差別に対する態度を間違っても、気づいた瞬間から行動を変えることができる。

差別は世間で言われているほど、一人ひとりにこびりついて消せず、誰も正しい対処をできないようなものではない。

多くの人が思っているよりもずっと、一人ひとりは差別に対して具体的なアクションができるのだ。

昨今のニュースに差別が溢れかえっている今、私たちはどんな行動をとるべきか、考えなければならないと思う。


※投げ銭スタイルの記事です。続きはありません。

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