「重力と恩寵」読書会後再思片・前
1 重力と恩寵
重力(pesanteur)と恩寵(grace)。pesar(重さがある、重さを量る)の名詞としてのpesanteurと祈りや祝福などの意味を持つgraceという二つの概念による対立構造から本著は構成される。対立構造といっても反発しあうものではなく、重力の作用の外側から恩寵が存在を包みこむというような次元の違うものとして扱われている。ここで示される重力という観念も本来の意味での重力、自然界に天衣無縫の姿で現れてあらゆる事象に作用を及ぼすものとしての重力とイメージを重ねて想像することで、より鮮明な掌握の助けとなってくれる。人間の本来性的な自然のうちに発生する感情以前の感覚。手を加えることがなければ下へ下へと落ちていくものをここでいわれる「重力」として理解する。対して恩寵はその名の通り神的な力の下賜としてイメージするのが適していると思われる。神的なもの、超越的なものであるからして人間自然的作用(重力)に直接的には関与せず、完全に別なる回路をもって作用する。これは重力と反対に上へ上へと昇っていく。
2 真空
外界から圧倒的な不条理の力が加えられ、人格や存在そのものを圧殺しようとするそれを見上げた時、因果はなく信念はなく、秩序はなく顔も持たない、世界の暴力的なまでの空洞を直視することがある。みずからのあまねくをほろぼされる瞬間。その真空地帯に自失した自己で招かれること。他人を害することで自己欠陥を充たそうとする欲求の声を遠ざけ、真空を真空のままで据えておくよう専心するさなか、その悲惨こそが神の意志であるという啓示を受けると、世界の壮絶なる実体がわれわれに絶句を迫るごとく不気味な燐光を帯びて浮かび上がる。世界は悲愴な人間のうめきと凄惨な神の慈しみのひしめきによって充たされていたことがわずかな月明かりによって明らかとなる。神が示したいばらの路を粛々と歩み進め、みずからを神の秩序に殉じさせることで、みずからと神、ひいては世界全体と合一させる。このよろこびが恩寵である。真空は恩寵の通り路であり、真空の存在それ自体が神の実在を示す恩寵の兆しとなる。
3 想像力
真空を耐え忍ぼうとする意志がない限り、喪失に対し均衡を取りたいと願い、想像力が真空を充たそうと巣穴から這い出ようとする。報いを願う心、均衡を求める心、喪失の対価としてみずからの喪失になにか価値があって欲しいと願うこと。向こう側にある世界を靄によってそれらしく描き、その幻にみずからを住まわせようとするはたらき。真空地帯の開け放ちを阻もうとする。
4 脱創造
世界は素のままでは正と偽とがさかさになっている。俗世的な一般の観念は高貴なものと低俗なものとが入れ替わり、わたしたちは低俗なものに貼付された仮象に欺かれ、敬い信じている。この世界においていつわりから目を醒ます役割を負うのが苦痛だ。苦痛は世界のいつわりの仮面を引き剥がし、正の腐敗を暴きたて、偽の光輝を見抜き、世界の目を開かせる。真空を引き受けることでみずからを手放し、神の神に対する愛の媒となる。神はわたしたちに苦難を浴びせみずからを手放すよう強いる、それによってわたしたちが神を愛するように。重力の中から恩寵が産まれる超新星爆発。恩寵は脱創造の中で産まれ、世界を目覚ましく一新していく。脱創造は恩寵の一点から始まり、全貌を露わにしようと仮象を脱ぎ捨てる。
5 十字架
不意な呼び水によりひとたびでも神の接触を受けたなら、にどと神を知らなかった頃に戻ることは出来ない。神の一瞬の光は永遠であるからだ。一片のくすみないまったき光を前に同意せずにいることは出来ず、そうなれば一瞬の差し示しの後に暗闇に放り出されたたましいは再び、今度はみずからが神の方角へと手を伸ばす。この神とたましいとの極限の駆け引きが十字架であり、世界に黒点として現れる人間的なものと神的なものとを繋ぐ究極なる一点である。尊厳ある個人を一介の瀕死した肉塊へと貶める凄惨な不条理を肉として味わい尽くし、苦しみ歎き尽くすこと。その末に神の沈黙と目が遇い、真空と恩寵とにたましいを奪われると、その肉体にはほろびとすくいとの二つが黒点のように共生する。
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