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自分語り、オチの呪い

いやー日にちが開いちゃったな。忙しい振りはダサいけれど忙しいんだからしゃーないってことで。今回はコミュニケーションについて。時にこんな言葉を聞いたことはないだろうか。

「え、オチは?」

「隙あらば自分語り」

男同士の会話でめちゃくちゃよく聞くワードよね。だけど今回言いたいのはこれめっちゃ危険な思考じゃないかって話。順を追って説明してくよ。

まず初めに謝りたいのが、あたし個人はすごく頻繁にこれ言う危険人物ってこと。本当に申し訳ないんだけどだからこそ今回の話はぜひとも反面教師として有効活用してほしいなって思ってる。この手の人間が増えると本当に世の中腐っていくと思うから。



早速本題。話が面白い人とそうでもない人がいるってのは何年か生きていればわかることだと思うし、面白い人と話すのは当然楽しい。その結果しわ寄せとして話が面白くない人が批判されるということが起こる。これが一個目のオチは?の正体だ。

まず大前提として、全ての話が面白い必要は、絶対にない。でもこういうことを言うと面白い話ができない負け惜しみなのかと言われるので追記しておこう。いったいどうして話を面白く感じないのが話し手だけの問題だと断定できるのか、と。

そもそも話の面白さというのは起承転結がきっちりしているかという基準のみで測れるものでは到底ないし、所謂オチ、と呼ばれるものですら多様な形態がありその全貌は聞き手はおろか話し手ですら把握しきれないのが現実。にもかかわらず話のオチ、延いては笑いどころが何処なのかを訊くことなど笑止千万。自分の理解力がないと公言しているようなものよね。

加えて笑いのツボというのは人にとやかく言われて変わるものでもないわけで。つまり相手の話を面白く感じなかったとして、それにかみついても状況は好転しないということだ。

簡単なことのようだがわかっていない人があまりにも多い。ましてやオチは?と訊く自分をあたかも面白い人間だと勘違いしているようにも見える。一刻も早く改めてほしい。もっともそれこそが当人の笑いのツボだとすればあたしがとやかく言おうと揺るがないのもまた事実ではあるが。



次は自分語りについて。昨今使われているネットスラング、隙自語のフルバージョンに当たるのがこの言い回し。余談だけど隙自語って予測変換で出るんだね。

自分語りと一口に言っても数種類形があるから、ここでは感覚的に不快な自分語りと不快でない自分語り、と二分することにする。

まず、不快な自分語りとはどんな自分語りか。一つ考えつくのはそれほど親しくない人間からされる自分語り、というところか。これは非常にお国柄という部分が大きいと思う。日本人は西洋人と比べて初対面から距離を詰めるようなことはあまりしないし、もっというと距離を詰められ慣れていない。誰しも慣れていないことはストレスの原因になるということなのだろう。是非ともジャパニーズ・腹の探り合いのステップを経てから自分語りに移りたいものだ。

次に考えられるのは、あまりにも一方的である、ということ。具体的に言えば相手の話している最中にも関わらず文脈的におかしいレベルの自分語りを挟む行為。これが一般的に隙自語って揶揄されているやつ。

これの難しいところは相手の話を自分の経験に置き換えて共感する、という一見正しいコミュニケーション手法中に起こりうるという点。

でも不快な共感とそうでない共感がある時点でそこには決定的な違いがあるわけで。当たり前のことのようだけど、これは語るタイミングの問題かなと。ようは自分語りをされるのが嫌なのではなく、自分の話を聞かずに自分語りをされるのが不快なんだと思うのよみんな。

だからまず聞け。とにかく聞け。相手の話が終わるか、あなたはどうなのかと訊かれるまでとにかく受け手で居続ける、それが大事。

自分語りが指摘される人の本当の問題が実は語ることではなく聞かないこと、って意外な結論がこの文章を考える過程で生み出せて感激。

とどのつまり、ちゃんと文脈的におかしくないタイミングで行われる自分語りに対して隙あらば、なんて言ってくる輩がいればそいつこそが聞く耳持たずの隙自語星人の可能性があるよね。そんな奴ははっきり言って相手にしなくていいよ。

冒頭でも言ったけど自己開示を行わない人間関係はどうしても希薄なものになってしまうから、絶対に自分語り指摘やオチの強要をおそれて一般論や笑い話しかしない人になっちゃいけない。孤独しか待ってないからその先には。


さらに大きい話にするのであれば自分語りやオチのない話の先にクリエイティブが潜んでいる可能性だって大いにあるわけで。周りの視線におびえてクリエイティビティを失ってなっていくような社会にはしたくない!ではでは

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