自由の女神

漫画村問題は消費者の反乱かもしれない

前回の記事で、漫画村の問題などは消費者の反乱のようなものだと書いたので、それについてもう少し書いてみます。

1.大衆消費社会は中央集権的

先進国は一般に大衆消費社会だと言われます。大衆という言い方は様々な意味合いに変化しますが、経済的には「消費者」が大衆になります。普通、生産者と消費者では消費者が多数派ですからね。

この大衆消費社会は「大量生産・大量消費」によって成り立ちます。

これを可能にしたのは1つは所得の向上、もう1つはマスメディアの台頭です。

所得が向上するモデルをつくったのはフォード社だと言われます。

フォードは当時高いコストがかかっていた自動車づくりの工程を分解して誰もが作業できるように単純化し、これをベルトコンベアで行わせることでコストを低下させ、大量生産できるしくみをつくりました。

それにとどまらず、フォードは労働者は消費者でもあると考え(今では当たり前ですが当時は画期的でした)、賃金を上げて、普通に働けばフォードの車が買えるようにしました。

このように大量生産を大量消費に結び付けることで、企業の利益アップと所得の向上が起こり、経済は成長し続けることになりました。

同時にマスメディアが出てきたことで、広告などを通じて「標準的生活」を大衆に刷り込み、売りたいモノを買わせることができるようになります。

この過程では、当初は「お金持ち」のものであったのが、価格の低下に伴い一家に1つとなり、さらに価格が下がるとモノによっては一人に1つとなります。消費社会においてモノはステータスになるのです。

こうして、「生産者側は消費者を標準的人間に仕立て上げるため、モノを買うように促す」という中央集権的モデルを確立しました。

言い換えれば、生産者側が買わせたいものを消費者に買わせるという図式です。

この図式が上手くいっていると「消費こそがステータスだ!」となります。私は生まれていませんでしたのでよく分かりませんが、バブル期にはこういう風潮が少なからずあったと聞きます。

これは、消費者の気分がいい分には全然問題になりませんが、客観的にみると消費者への抑圧が存在しています。

2.消費者への抑圧

具体的に言うと、その1つとしてあげることができるのは計画的陳腐化です。

これは、「まだ使えるけど、買い替えてもらう」ことを目的としたマーケティング手法です。

スマートフォンやPCは非常に分かりやすくこれをやっています。新しいモデルを常に出すことで、出回っているものを「古いよね」と思ってもらい、買い替えるよう促しているのです。ハードでは少ないですが、MSのオフィスなんかではPC買い替えのたびにオフィスも買い替えないといけないみたいなことになっています(今はクラウド型もありますけど)。

コピー機になってくると、一定回数で印刷できなくなったりするものもあります。インクはまだあっても。

これはよく考えると「なんかおかしいよな」と消費者に感じさせるものです。

とはいえ、必要なものであれば、仕方なく買いますよね。でも少しずつ不満が溜まるものです。

3.経済縮小は抑圧に対する反発を高めた

日本で言えばバブル期までの「消費こそがステータス」という風潮は、バブルの崩壊、続く「失われた20年」で完全に消え去りました。

以降は経済の縮小が始まります。より正確にいうと「格差の拡大」です。これは資本主義の宿命なので、本来は政治が介入して調整していく必要があるのですが、日本はあまり格差対策に本腰を入れてこなかったので現在までにだいぶ格差が開いてしまいました。

同時に企業は見通しの悪さと業績の悪化から人件費のカットにのりだし、所得は低下していきました。

所得の低下は大量消費を困難にしていきました。同時に、消費者は消費に慎重になりました。

これによって消費者が生産者に対して要求していく動き、「買いたいものを買えるようにしろ」という感じの動きに変わっていきました。

直接こういう動きがあるわけではありませんが、実質的には消費者のニーズに合わせていく方向に動いているのは明らかです。

従来のやり方も消えたわけではありませんが、影響力は下がってきています(大ヒット商品は減ってきていますよね)。

結果的に、消費者は生産者が消費者を抑圧しながら利益をあげてきたことに反発するようになったと言えるわけです。もっとも政治とは違って、実際にデモなどをするのではなく、単にそこでは買わないというかたちですが。

4.嗜好品はさらに反発されやすい

生活や仕事などで必要なものであれば、不満があっても買うことになるのですが、必ずしも必要でない、いわゆる嗜好品になってくると話が変わってきます。

嗜好品のポイントは「欲望の消費」である点です。つまり、欲望が消費さえできれば何でもいいのです。

ぶっちゃけなんでもいいので、「できるだけ安く済ませたい」となります。

「無料ならなお良し」です。

とはいえ、実際に出向くところでタダでというのは見栄とかもあるので、なかなか難しいですし、本来有料のものをタダで持っていったら犯罪になっちゃいますね(笑)

でも、ネットならそれができるんです。ネットコンテンツは基本無料ですから(有料のほうが例外)。

それが仮に本来見れてはいけないものであったとしても、ばれないし見ちゃおうとなるわけです。

「そうなると維持できない」と言われても、「無くなったら無くなったで別の探すからいいよ」となってしまいます。欲望が解消できればなんでもいいですからね。

これに対して、「私たちの枠組みでやってよ」と言っても、「こんないい場所を手放すかよ!」という反発を生むわけです。

「今までおいしい思いをしてきたんだろ」という思いもたぶん潜在的にはあると思います。これは正しいとか誤っているとかいうレベルの話ではなく、非常に身勝手な感情の問題ですね。

5.ネットは消費者反乱の場所になっている

今までの話を総合すると、以下のように言えます。

消費者が消費を慎重にしなければいけない状況に
→「生産者がものを買わせる」から「消費者が買いたいものを買う」に
→嗜好品は強い消費性を持つので、「出来れば安く」が特に強まった
→ネットではほとんどをタダで消費できる(一部違反のものも含む)
→ネットが嗜好品を無料で扱える場になっている

こうして、インターネットは従来の中央集権的なやり方に反旗を翻す場所になっているのです。

その中で、特に問題が噴出しているのが今は漫画村なわけですね。(法的、あるいは正義論的には擁護できるものではありませんが)

世界史を見渡せば、民衆の反乱は強い力を持っています。これを鎮圧できたことはあまりありませんし、最初の主張通りにいかなくても結果的に体制の変革につながっている例が非常に多いです。

後から見れば、それが正しかったのかは疑問なものもあったりはしますが(フランス革命とか)、民衆のパワーは侮れるものではありません。

よって、結局は「嗜好品は無料で提供しろ」という方向性に動いていく可能性が高いんじゃないかなと思っています。実際、目下注目されているマンガ界でもアプリを使って、一部は無料で読めるようにする動きが広がってきています。

6.おわりに

なんだかとりとめもなく書いてしまいました(笑)本当はもっと理論的な話があるんだと思うんですが、勉強不足でなかなかそこまで書けませんでした。

でも、大きな流れとしてはそんなに外れていないんじゃないかと思っています。

今度は、そういう社会情勢、市場の性質の中で生産者側はどうしていくべきかも深めていければなと思います。

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