見出し画像

「エロい」の汎用性――性行為以外に宿るエロスについて

食事に感じるエロス

先日、諸事情によりフレンチを食べていた時のこと。

アミューズの一品で、細長く小さなガラスの器に、三層のムースが盛りつけられた料理があった。
一番上はトマトと香草、真ん中は海老とアボカド、一番下はオレンジだったと思う。
それらをスプーンでひと絡げに掬って食べてくださいと指示があり、言われたとおり口に運んだ。
舌で転がし、味わい、嚥下し、感想として己の口を突いて出た言葉は、「おいしい」ではなく「エロい」だった。

次の瞬間、食事をともにしていた人に「は?」という顔をされ、えっ、このお料理エロくない? と聞いたところ、「全然わからん」と言われてしまう始末。
しかし確かに、感覚的に、それはエロかったのだ。

アミューズの皿が下げられ、次々と出される料理を食している間も、私は「あの料理のどこにエロスを感じたのか」ということばかり考えていた。
トマトの青くささと、海老とアボカドのまろやかな甘さ、そしてオレンジのさわやかな酸味。
それらが口腔内に独立して存在しながらも、複雑に混ざり合って食道に流れ込み、香りが鼻に抜ける感覚。
今思い出しても、あれはひとつのエロスを形成していたのだった。


性行為以外で感じるエロスの正体

エロスは、何も性行為だけに宿るものではない、と思う。
もちろん、露出度が高かったり身体のラインを際立たせたりしている「エロい服装」や、声のトーンや歌詞が性行為を匂わせる「エロい音楽」といった、直接的に性行為と結びつくものもある。
しかしそれ以外にだって、エロスは存在している。

たとえば好きなバンドの音楽で、ギターとベースの音がオクターブのユニゾンになる瞬間。
悠々と上の音を泳いでいたギターと、地を這うように音の連なりをなぞっていたベースが、ある地点で交わった時、エロいなあ、と感じる。そこにドラムの端正なリズムがカチッとはまると、もう最高にエロい。

または、彫刻家・小谷元彦氏の「エレクトロ(バンビ)」という作品。
※作品の写真はこちらの記事

可愛らしい子鹿の剥製の四肢に、歩行の補助器具のような、あるいは拘束具のような金属を纏わせてある。
学生の時分に、森美術館で行われた展覧会で見た瞬間、釘づけになった。
幼くさらさらとした栗毛色に、金属の鈍色が刺々しく無機質な光を与えているさまが、本当にエロいと思ったのだ。

春の曇りの日にどこからか漂ってくる沈丁花の香り、冬の凍えた空気の中で感じるコーヒーの熱さ……エロいと感じるものを挙げればキリがない。
何がそれらをエロスたらしめているのか。
思うに、異質の個同士が、何かの拍子に混ざり合った瞬間に、エロスは宿るのかもしれない。
混ざり合ったとしても、完全に同じにはならない。マーブル状を為して、絶妙な調和をつくり上げた時に、私はエロスを感じているのだと思う。

人間だって同じだ。
姿かたちも考えていることもちがう個同士が、互いを寄り添わせて、ぶつかったりいたわり合ったりする。そこで生み出される緊張感から、調和が生じる奇跡的な瞬間を、私はすべからく「エロい」と表現したい。


尺度としてエロスをとらえる

……というかんじで、私の使用する「エロい」という言葉は汎用性が高い。
五感を総動員してエロスを感じる行為は、とにかく楽しい。ふとしたことを「エロい」と思った瞬間から、日常がまったく別のものに見えてくる。空間に裂け目ができて、いけないものがちらりと覗いてしまっているような、ちょっと不思議な気持ちになる。
そのように、ある状況をとらえる時のひとつの「尺度」としてエロスを導入すれば、割とどんな状況でもひとりでわくわくすることができる。
そうやって自分のご機嫌を取る手段としては、なかなかコスパがよい行為だなと思うのだが、残念ながらあまり共感してくれる人はいないのだ。おすすめですのでぜひ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?