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アコギ回顧録 Vol.51(最終回)「坂庭省悟さんの思い出」「3本の1950年代D-28」

 ギターを道具(弾くもの、使うもの)として捉え、プレイヤーの視点から見た良いギターとはどのようなものか?その答えを追い求めて50年余り。所有したギター本数も3桁に届きます!(現在126本まで確認しました)
 その答えと言えるかどうかわかりませんが、過去~現在を振り返って自分なりの考え方をまとめてみようと思いました。アコギ好きの方、興味のある方にとって、少しでもお役に立つことができれば幸いです。

 前回でこの回顧録も50回を数えました。最初のご挨拶、番外編と合わせて、前回までの合計投稿数が65本。このあたりで、本編は最終回にしようと思います。1年と3か月ほどでしたが、皆様お付き合いありがとうございました。書くほどに語彙力、文章力の無さを痛感しています。本当につたない文章を長きにわたってお読みいただき、感謝の言葉しかありません。
 回顧録は今回で終わりますが、引き続きアコースティックギターの記事は書いて行くつもりです、ネタをどうしようか考え中ですが、とりあえず次回からは今持っているギターの紹介でもして行こうかなと思っています。

 「坂庭 省悟さんの思い出 1 “都雅都雅”」
 今を去ること30数年前のことです。働いていた職場でコンサートを開催することになり、坂庭 省悟さんが当時組んでいたバンド“SAM”を呼ぼうということになりました。知人のつてでコンタクトを取り、めでたく出演していただくことになりました。
 このことをきっかけに“SAM”のコンサートやライブにも顔を出すようになり、当時“SAM”がマンスリーでライブを行っていた京都のライブハウス「都雅都雅」にも毎回行っていました。その間に前述したVINTAGE VOICE(アコギ回顧録 Vol.39に書いています。)のことで坂庭さんと親しくなれたこと、自分の家が坂庭さんの帰り道の途中にあることもあって、毎回坂庭さんの車で家まで送ってもらっていました。自分が遠慮すると、「何を言うてんねんな、かまへんかまへん。送るさかい乗っていいき。」というような調子でした。坂庭さんのファンの方々からすればなんという罰当たりな奴!と言って怒られそうですが、坂庭さんは本当に気さくで優しい方でした。
 いろんな人に話していることですが、坂庭さんの魅力は何といってもその人柄です。自分からすれば雲の上の存在なのに、いつも対等の立場で接していただいていました。ともすれば坂庭さんの方が気を遣ってくれていたのでは?と思うことがたくさんありました。

「坂庭 省悟さんの思い出 2 “少年倶楽部”の打ち上げ」
 坂庭さんと知り合ってまだそれほど時間が経っていない頃のことです。坂庭さんの友人である北村 謙さんのバンド“少年倶楽部”のライブを見に行った後、打ち上げに誘われた坂庭さんが一緒に行こうと言って自分をその打ち上げに連れて行ってくれました。他に知り合いが一人もいない中、ほとんど全員が「こいつ誰やねん?」という感じで自分を見ていたと思います。誰かが坂庭さんに「その人誰なん?」と聞きました。坂庭さんは間髪入れずに「友達や。」と言ってくれました。その瞬間、場の空気が変わりました。自分は「コイツ、誰やねん?」から“坂庭省吾さんの友達”になった訳ですから、みんなの見る目が変わったのは間違いありません。顔には出しませんでしたが、メチャ嬉しかったのを鮮明に覚えています。この後も坂庭さんにはずっと変わることなく、自分と接していただきました。ともすれば自分より坂庭さんの方が気を遣っておられるのでは?と感じたことも多々ありました。うがった見方をすれば、人気商売やからとも言えるかもしれませんが、自分にはそれが坂庭さんの人柄だったと確信しています。坂庭さんはたぶん自分だけではなく、誰に対してもいつも同じように接しておられたのだと思います。だからたくさんの人たちがまわりに集まったのでしょう。
 
「坂庭 省悟さんの思い出 3 “ハチタイ”」
 いつが最初だったのか?今となっては思い出せませんが、京都のライブハウス“都雅都雅”で“ハチタイ”(八時間耐久ライブ)が始まりました。坂庭さん曰く「自分の仲間たち忘年会」「自分の仲間たちが楽しめる集まり」にしたいというのがそもそものコンセプトでした。回を重ねて行くうちにすごいメンバーがたくさん集まっていきましたが、それぞれのステージが本当に楽しそうでした。
 この“ハチタイ”、最初から“ハチタイ”ではありませんでした。初期の頃のライブ時間は、4時間程度であったと記憶しています。自分の記憶では、第3回か4回目ぐらいから“ハチタイ”になって行ったように思います。当初は「8時間のライブって、お客さんが疲れてしまわないかな?」と心配していましたが、杞憂でした。普通のライブとは違う楽しみ方ができるライブでした。出演されるミュージシャンも多彩で、お喋りも面白かったです。本当に出演者もお客さんも一緒になって楽しめる“忘年会”でした。その楽しさこそが、今も“ハチタイ”が継続して開催されている理由なのだと思います。都雅都雅だけではなく、沖縄と北海道でも“ハチタイ”は開催されています。
 
 今、同じことをしようとしてもできる人はいないでしょう。坂庭 省悟さんの存在があって初めてできた“ハチタイ”だと思っています。

 余談ですが、自分もこの“ハチタイ”に出させていただいたことがあります。まだ“ハチタイ”とは呼んでいなかった初期のお話です。(たぶん第2回だったと記憶しています。)坂庭さんから「出たらええやん。」と軽く言われてしまい「とんでもない!自分たちが出演するなんて、滅相もないです。」と言ったのですが、いつもの調子で「かまへん、かまへん、みんなで一緒に楽しんだらええねん。」と押し切られてしまいました。メッチャ緊張しながら唄ったことを覚えています。今となっては良い思い出と言えますが、長い間「ホンマにええんかいな?」と思っていました。

打ち上げで 坂庭さん、PETAさん。右端は茶木みやこさん
坂庭さん、宮崎勝之さん、中川イサトさん
一番手前で背中を向けているのは、五十川清さん


「3本の1950年代D-28」
 VINTAGE VOICEのレーディングが終わってしばらく経った頃、坂庭 省悟さんを誘って神戸のギターショップ“ヒロ・コーポレーション”へ行きました。到着してほどなく、その時ショップにあった1950年代のD-28(たぶん5本あったと記憶しています。)を弾きまくり。(3~4時間は弾かれていたと思います。)店に行く前には全くそんな話は出ていなかったのに、最終的には2本(1951年製と1954年製)のD-28を購入されていました。ちょうどヴィンテージギターにハマり始めたということもあったと思いますが、いきなり2本も購入されたのは想定外でした。2本とも信じられないほどの素晴らしいコンディションで、値段も凄かったです。(2本合計で300万円!25年ほど前の話です。坂庭さんに、躊躇するようなそぶりはまったくありませんでした。)坂庭さんが選んだギターですから、音はもちろん文句なし!しかもまったくキャラが違うサウンドを持っていました。坂庭さんのギター選びの過程その一部始終をずっと横で見ていましたが、あらためてマーチンD-28というギターの奥深さを知った貴重な時間でした。1951年は音の太さ、コードバランスの良さが、1954年はフィンガーピッキングで弾いたときメチャクチャ艶のあるサウンドでした。
 その後にもう1本、ヒロ・コーポレーションから1950年製のD-28を購入されます。それはたぶんバースイヤーのD-28だったからかなと勝手に想像しています。このギターもメチャクチャ状態の良い個体でした。(値段がいくらだったのかは知りません。)
 
 その3本のD-28のうち、1951年製は現在自分が所有しています。残りの2本も二人のギタ友が所有。自分の28はできるだけ多くの人に弾いてもらいたいと思い、様々なイベントに持って行って使ってもらうようにしています。“弾きこまれる”ということの意味を教えてくれたギターです。もちろんもともとのポテンシャルも高かったのであろうと思いますが、反応やコードバランス、一弦一弦の存在感、何もかもが「そこらへんのギターとはぜんぜん違うな」と言うことを感じさせてくれます。

坂庭省悟さんのD-28 1951年製 まさに歴戦の強者という雰囲気です。

 拙い文章をお読みいただき、誠に有難うございます。皆様の感想、ご意見をお聞かせください。 またアコギに関する相談等がございましたら、どんなことでもOKです。遠慮なくお尋ねください。
宛先 e-mail:mail@acogian.com または twitter(@acogibucho)にお願いします。

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