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ストレスのない日々の記憶は蓄積されない


夏が始まった。

夏の始まりに
清水翔太の「ナツノオワリ」
にハマりだすのが私のお決まりである。

清水翔太は夏の始まりを「恋が始まるとき」だと形容したが、私にとっての夏の始まりは自分の誕生日である。


7月17日で25歳になった。


25歳はどんな1年になるだろう。

20歳の時に書いた「死ぬまでにやりたいことリスト」は25歳の現時点で斜線が引かれているものが多くなった。

それは幸か不幸か、5年前のやりたかったことをほとんど終えてしまっているということである。



昔、こんな言葉をかけられた。

「社会人になると時間が早く過ぎるよ」

たしかに、小学生の頃の時間の体感速度と今の時間の体感速度はまるで違う。なぜあんなにも小学校の期間は長かったと感じるのだろう。

私は思う。

刺激とストレスのない日々の記憶は蓄積されない。

小学校の頃は、とにかく刺激に溢れていた。
自分以上に足が速い人がいるなんて知らなかった。
日本語以外に外国語があるなんて知らなかった。
汚い言葉を他人に浴びせると他人が傷つくことがあるなんて知らなかった。

とにかく、毎日新しいことが目の前に現れ続けた。そんな日々の記憶は、私の中に色濃く残っている。

反対に、新しい出来事や、感情が揺さぶられるような体験をしない日々は記憶として蓄積されない。

私は2020年の4、5、6月の記憶がほとんどない。

この時期は何があったか。

そう、緊急事態宣言である。

例のウイルスの影響を受け、特に刺激の無いまま一人暮らしの日々を過ごした。小学校の頃と同じ長さの1日、同じ長さの1週間、同じ長さの1ヶ月を過ごした。確かに2020年に存在したはずなのに、それを確かめるための色濃い記憶がほとんどないのだ。由々しき事態である。

振り返ると、緊急事態宣言の日々は同じ朝のルーティンをこなし、同じタイミングでご飯を食べ、同じタイミングで寝ていた。ノンストレスで、刺激はなかった。

日々同じことをやり続けていたことが、記憶が蓄積されなかった原因だったのではないかと思う。その期間を利用し、もっと何か未知の体験をやればよかった。激しく後悔している。

そんなことを書いていたらまたあの言葉を思い出す。

「社会人になると時間が早く過ぎるよ」

社会人である日々を重ねれば重ねるほどもちろん慣れが生まれる。惰性で日常を過ごすことも、ベテランになれば可能になっていく。昨日と同じ生活をしていても別に生きていける。

だからこそこの言葉が、楽な方、楽な方へと進んでしまって記憶が蓄積されなくなっていることから目を背け、時間の流れが早いんだとお茶を濁してしまっているように感じてしまう。

「いつも通り」を繰り返し、新しいことに飛び込む意思がなければ、それは私にとっての緊急事態宣言の期間と同じ感覚になるのは想像つく。

かくいう社会人2年目の私の24歳は、とても長かった。

今思えば私にとっての24歳は間違いなく刺激とストレスに溢れていた。

ぶっ倒れるくらい動き続けた10月も、悔しくて悔しくて苦しかった12月も、見たことのない景色をみた3月も、何も記憶が蓄積されていないあの頃に比べればすべてが何十倍も幸せである。

喜怒哀楽すべてを満遍なく味わった24歳だった。


25歳はどんな1年になるだろう。

特技でもあり、短所でもある「無理をする」が変な方向に向かないように。大切なものを間違えないように。去年の反省を活かしていきたいところ。



25歳の「死ぬまでにやりたいことリスト」は20歳の時とは違ったスケールの大きいものになった。

まだまだやりたいことリストはゼロになりそうにない。



25歳も、長い1年になりそう。

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