針飛びレコード・ブレンド

 頭は鉛のように重く、嘲笑うように眩しい陽射しが憎らしい。 二徹中の脳の中は泥のようで、庁舎の門をくぐる足取りもふらついている。 すぐにでも倒れ込んで眠りたい心持ちだが、暫く何も与えていない胃がキリキリと痛み、これをどうにかしようと、ナタリアは決心した。
 ナマズの食堂は閉まって久しい午後半ば、しかし売店の固形食ではあまりに味気ない。 ならば、と足を向けるのは、庁舎裏の路地。 道端のポリバケツを蹴飛ばさぬよう、居眠りする野良猫どもの尾を踏まぬよう。 足を進めた先に、苔生したレンガ造りの喫茶店があった。

――カラン。

 倒れるように体重を乗せ、ノブを押す。 扉をくぐると、砂漠に水滴が落ちるように、珈琲の香りが意識に差し込んだ。 

「いらっしゃいませ」

 出迎えた無機質な声に片手を上げて応え、窓際の席に目星を付ける。 ふらふらとソファへ辿り着くと、ナタリアはどっか、と勢い良く腰を下ろした。 そんなぶっきらぼうな所作が印象に悪かったか、カウンター席に居た先客が、いそいそと帰り支度を始める。

「ご馳走様。 いつも通り美味しかったよ」

 客が携帯端末を翳し、カウンターの中から鈍色の指が差し出される。 それがスクリーンに触れようかという寸前、電子音が小気味良く響き、決済の完了を報せる。

「またのお越しをお待ちしております」

 ベルを鳴らしながら去る先客を、お邪魔してすいませんね、という目線で見送る。 さて注文を、とメニューに手を伸ばして、居るべき人物が店内に見当たらない違和感に、鈍い思考がようやく追いつく。

「マスターは? 買い出し?」

 ナタリアを出迎えたのは、いつもの給仕のアンドロイド。 しかし普段であれば、もう一つ見慣れた、店主の姿がカウンターの中にある筈だった。

「少しの間、旅行で留守にしております。 主人が不在の間は、私が店主に代わりまして、当店の変わらぬ味わいをご提供致します」
「なるほど、了解」

 確かに、主人の手先を何百回とメモリーに刻んだであろうアンドロイドの言葉とあっては、疑う余地は無い。 それならいつものセットを頼むかな、とは思いつつ、一応とパラパラ捲ったメニューに、ナタリアは見慣れない文字列を発見した。

「この、『店主のオススメ珈琲』ってのは?」
「は?」

 ナタリアが掲げたメニューの片隅の文字を、振り返った電子の瞳が認識する。

「それは……いえ、筆跡は、確かに主人のようですが……」

 トボけた口髭を蓄えた、やたらと駄洒落好きのマスターの笑う顔を思い出す。 なるほど、あのオッサンの仕掛けそうな悪戯だな、とナタリアは得心する。

「そんじゃ、こいつで頼むよ。 オススメのやつ。 トーストとセットで」
「……いえ、しかし……私は、主人の味をご提供するということで…」

 冷静沈着が板に付いた筈のアンドロイドが困る様というのも、何とも物珍しい。 ここには居ない店主が嬉々とする様が、ナタリアの目にも容易に浮かぶ。

「頼むよ、寝不足にビシッと効くやつ」

 店主の企みに付き合うべく、もう一押しをかける。 暫く戸惑うようにしていたアンドロイドだったが、やがて観念した様子で、らしくない小さな溜め息を吐く。

「――承りました」

 厨房へ向かう後ろ姿を見送り、ナタリアは、普段とは違った味わいとの出会いが巡ってきた事を、少し気分良く思う。 首筋には、深く身を預けたソファの、柔らかい感触。 カーテン越しに差し込む淡い光と、珈琲の香りが心地良い。 そろそろ限界だなと、注文の皿がやってくるまでの僅かな時間、瞼を閉じて待つ事として、ナタリアは意識を宙へ放り投げた。

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