静かなマグネットボード

 環境課庁舎、屋上、その片隅。 ギギギと反らした上半身をゆっくりと戻し、濁点付きの息を吐く、山形の姿がある。 疲労の色を顔一杯に湛え、今は束の間の休息にと、外へ這い出て来ているのだった。

(向いてないね、お役所らしい仕事は……)

 この頃の人手不足により、市民生活係である山形は、不慣れな窓口業務に駆り出されてしまっている。 普段はするすると外回りに抜け出ているが、今は事情が事情だ。 今日もまた、電子書類データベースの広大な迷路に散々嵌まり、詰め掛ける市民達からの顰蹙を次々に買っていた。

 山形が入庁してからこれまで、忙しなくとも活気を持ち、激務を捌く同僚達の表情には、充実の色があった。 しかし、あの日を境として、それは跡形無く失われてしまっている。
 この係が、他の部署より特段多くの犠牲を払ったという訳では無かった。 しかし事実として、その後の環境課において、この部署は最も多くの人員を目減りさせてしまっている。

 市民生活係という部署は、この環境課という組織の中では、「日常」の印象が濃く、「普通」の課員達が多く在籍していたように思う。
 そんな中で、お茶と笑顔を振り撒き、同僚の心の清涼剤となっていた彼女のデスクは、数日前、綺麗に片付いてしまった。
 その隣、彼女の姿をよく目で追い、持ち前の陽気さで彼女の笑顔を一層咲かせていた彼のデスクには、今は白い花が添えられている。
 この部署にとって、今回の「非日常」は、あまりに強烈が過ぎたのだろうと、山形は思う。

(ついていけんよな)

 去った彼らを、臆病などとは思わない。 自分の程度を計り、及ばないなら、避けて通る。 実に賢明だ。
 金にはこだわらない。 名を上げようなんて考えない。 自分の視界の外にある、違う尺度・常識の裏返った世界に近寄るなんて、とんでもない。
 凡俗が裏街道で長生きできるようにと、山形もそう心掛けて生きてきた。

(しかし、なあ)

 その処世術への矛盾が今、自分の首からぶら下がっている。 ネオンイエローのそのIDは、かつて、努めて避けてきた内の1つだ。 それを、あろうことか自ら手にして、古巣の冷ややかな視線を浴びるのが、今の山形である。

 拙い理想を抱え、遅れてやってきた男を、同僚達は殊の外暖かく迎えてくれていたように思う。 時に奔放な行動を許容して貰い、漠然とした夢を酒と共に語り合う事も出来た。
 その夢は、始めたばかりで、まだ何も成せてはいない。 取り戻せるものは取り戻し、この場所でやっていきたいと、そういう思いが、山形にはある。

 荒事に自信は無いが、機械弄りと育ちの悪さになら、少し覚えがある。
 腰に差した工具達と悪知恵が、役に立つこともあるかもしれない。

「――まあ、出来る事から、やってみよう」

 ぷらぷらと揺らすだけだった缶のプルタブを開け、一息にコーヒーを飲み干す。
 とっくに飲み慣れたはずの無糖は、この頃、やけに苦々しく舌に残る。
 山形は、空き缶をゴミ箱に放り込むと、先ずは再び、激戦真っ只中の窓口内を目指し、歩き出した。 

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