雨垂れ石を穿つまで④

 退勤時刻も過ぎて、夜。 報告と残件処理の為、庁舎に戻ったナタリアと別れ、山形はまだR-1N地区に居た。 他所から恐れ戦かれる、優秀な情報係の事だ。 今頃は多分、事の本命のカタも付きつつある頃合いだろう。 となれば、残るはこちらの片付けのみ。

「まぁ、とりあえず。 おやっさん、もう1杯!」

 あいよ、とすぐさま注いでくれる酒に口を付け、くーっ、と山形は唸りを上げる。 1日歩き通した体に、アルコールがよく染み渡る。

「…いや、割と真面目な話のはずなんですから。 少しは控えません?」

 山形の横、座る長椅子の隣には、スーツ姿の青年が居る。 その他の客は、周辺にまばらに設置された露天の席に散らばり、屋台の付近には、山形と青年、そして屋台の主人の姿があるだけだ。

「バカお前、大変だったんだぞ、今日1日。 事がトントン拍子に進んでなきゃ、何日掛かるかも解らなかったんだ。 労いの酒くらい、必要ってもんだろうに」
「いやその…。 まあいいや、もう。 好きに飲んで頂いて…」

 言われるまでもない、と追加でつまみの注文を飛ばす。 あいよ、と景気良く、主人は中華鍋の準備に掛かった。

「それで、事の経緯と、状況は理解しましたけど。 まだあるんでしょ、本題が」

 早くしてくださいよ、という顔をしながら青年が言う。 手元の餃子を1つ口に放り、酒をゆっくりと呷った後、山形がグラスを置いた。

「あの三兄妹だけど、組合の方で雇わないか? サイバー関係の専門家、居ないだろ。 そっちの管理能力が上がって、こっちはトラブル防止になって、奴らは日銭を稼ぐアテが出来る。 一石三鳥だ」

 溜め息と共に、そんな事だろうと思った、と青年が漏らす。

「お人好しが過ぎますよ、相変わらず。 第一、ウチで雇う価値のあるほど、腕はあるんですか?」
「発展途上、ってとこじゃねえかな。 でも、筋は良いらしいぞ、こっちの化け物ハッカー曰く。 何だか気に入ってるみたいだったし、もしかしたらオンライン越しのトレーニングとかで面倒を見てくれるかもしれない」
「環境課の肝入りのハッカーを組合にって事ですか? …ホントに、性質の悪い冗談にしか聞こえないですよ」

 そりゃまったく、と山形が笑い、青年がげんなりと炒め物をつまむ。 主人が鍋を振るう後ろ姿を眺めながら暫し咀嚼した後、青年が皿に箸を置く。

「本当に、根っから地区の人間な貴方が、何で環境課なんかに入ったんです? 山形さん」

 ん?と怪訝な顔をして、炒め物に伸ばそうとしていた山形の箸が止まる。

「何だ、今更。 ちょっとした新しいチャレンジだって、いつも言ってるだろ」

 いつもの調子ではぐらかす山形に、今日の青年は引き下がらない。

「変わりませんよ、こんな事をしても、何も」

 視線は山形を向かないまま、青年が続ける。

「何かが変わるには、もうしがらみが多すぎて、複雑すぎるんです。 持って生まれた人間が享受して、そうでない人間は、地の底でもがくしかない。 そういう世の中です」

 表情を変えず、山形はまた酒を呷る。

「それを知って、やっているんですか」

 僅かな時間、鍋の食材の焼ける小気味良い音だけが、場を満たす。

「変わるさ」

 やがて、グラスを見つめながら、山形が言葉を吐き出す。

「変えないように頑張ったって、何でも変わってっちまうもんだ。 だから、俺はそれが何十年後、何百年後だって構わない」

 情に生かされてきた中年の、ささやかな祈り。

「いつか、今より割を食う人間が減るように。 俺の出来る何かしらを、探してるのよ」

 暫く黙り込んだ青年が、はああ、と深い溜め息を落とし、山形に向き直る。

「本当に、他に見た事無いですよ。 貴方みたいな夢想家は」

 そう?と得意げにする山形に、誉めてない!と青年が憤る。

「しかし、もしかして、夢を見てんのは俺だけじゃないかもしれんよ。 質してみた事は無いが、こんな奴を雇う所があるんだから」

 環境課課長、皇 純香は、何を思って自分に席を与えたのか。 いつか、聞けるような日が来るだろうか。 目を細める山形の横顔は、青年の目に、まるで夢を見る子供のように映った。

「…まったく、外部からの干渉、ギリギリライン越えなぐらいだとは思いますが…。 貴方に免じてこの件、上に掛け合ってみますよ」

 お、ようし!と浮かれかける山形の鼻先に、青年が指を突き付ける。

「その代わり、貴方が保証人です。 彼らがしっかり使い物になるよう、必要な事はやってくださいよ」
「そりゃ勿論、R-1Nがサイバー犯罪の温床にならない事は、こっちも大いに利がある。 喜んで手を回させてもらうさ」

 そちらに得されるのはあんまり面白くないんですけど、ともごつく青年の肩を、山形が叩く。

「さ、難しい事は片付いたし、飲むぞ!」
「え? いや、本題が終わったなら失礼しますよ。
 結構あれこれ忙しいんですよ、私」
「バカお前、飲むぞって俺が呼んだんだから、飲み終わるまでが本題だろうが。 仕事は明日にしろ、明日!」
「ええ~!?」

 もがく青年の肩を押さえ付け、山形が機嫌よく笑っていると、丁度、店主が大皿に乗った肉料理を運んできた。 騒ぐ様子を見て、様子を窺っていた周囲の常連も屋台に席を移し始め、普段通りの風景が戻ってくる。 時刻はまだまだ宵の口。 R-1Nの夜は、これから長い。 今日は思い切り飲んでやろう、と心に決め、星の無い夜空に光る電灯に、山形はグラスを掲げるのだった。

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