タイドプールを彷徨う

 朽ちかけた街灯たちが、ポロポロと点り始める夕闇の頃。 路傍に転がる空き缶の群れをヒョイと跨ぎ、スーツの青年が通りを歩いていく。 今晩の夜空にも相変わらず星は無いんだろうなと、当たり前のことを考えながらぼんやりと空を見上げ、前を向く、何気ないひと時――の、次の瞬間。 引き絞られたサイボーグの鉄腕が、前方で突如、振り抜かれるのを見た。 そして、視界を黒い影が横っ飛びし、轟音と共に、何かしらの物体がゴミの集積場へと叩き込まれる。
 それを目撃した通行人たちはすぐさま野次馬へと変わり、指笛が鳴り、何事かは知らないが荒事だなと、一斉に沸き立つ。 見たかこの腕力を、とサイボーグが観衆へ応えて見せる中、崩れたゴミ袋の山向こうから低く唸りが響くのを、青年は聞いていた。 そして間も無く、爪と歯を剥いた獣人が、土煙を裂いてサイボーグへ飛び掛かる。 野次馬のボルテージは一層に上がり、爪が鉄を削る音を鳴らし、やいのやいのと始まる喧騒から視線を外して、あぁ、今日もまたR-1Nは事も無し、と横をすり抜けて行った。

 やがて、いつもの中華屋台が見えてくる。 既に満席の盛況ぶりで、すっかり出遅れてしまった。 どこか席は無いものかと立ち尽くしていると、カウンターで出来上がっていた数人がこちらを見止め、酔いを一瞬で醒ましたような顔をして、一斉に立ち上がる。 はて、どこかで見た顔かな、と考えるより先に、彼らはカウンターに代金を投げ出し、逃げるように去っていく。 腰の獲物に手を掛け、呼び止めるかどうか一瞬迷ったが、まぁいいか、と空いた席へと有難く向かう事にする。 今はこちらもオフ、食事を求める一市民に過ぎない。 集中すべくは今からの夕食だと、店主が卓上を片付ける傍でメニューを手に取り、ふと、そこで初めて、隅の席でうなだれて酒を飲む、疲れ顔の男に気が付いた。

「おや、どうも山形さん。 ご無沙汰ですね」

 のそりとした動きで、ん?と顔を上げた山形と視線が合う。 愛想良く、笑みと共にメニューをひらつかせてみたが、げっ、と聞こえてきそうな、口の端をひん曲げた、心外な表情が返ってきた。

「暫くは会いたか無かったな……」
「酷い言い草ですね。 普段はこちらの都合もなく呼び出す癖に」

 知らん、と悪態をつき、山形は手元の餃子を口に放る。 折角声を掛けたというのに、どうやらこちらと楽しくお喋りをする気は向こうに無いらしい。
 立て続けにビールを呷るその様子にお構いなく、青年は言葉を投げる。

「どうやら忙しかったみたいですね、ここの所」

 無視してジョッキを持ち上げかけて、観念した山形が手を止める。 言葉よりも先に、先ずは溜め息が返ってくる。

「とんでもない規模だったからな、例の暴動は。 あっちもこっちもメチャメチャで、直すもんだらけで骨を折ってるよ」
「あぁ、そちらの庁舎もあちこち修繕の目隠ししてますもんねえ。 地区内でもちらほらと気勢を上げてるバカが居て、大変でしたよ」

 海鮮チャーハンを注文しつつ、「でもまぁ、こちらは通常業務の範疇内でしたけどね」と余裕の青年に、「そりゃあ結構」と山形は渋い顔。

「R-1Nも鬱憤溜めてる奴らだらけと思ってたが、街の方がよっぽど酷かったよ。 わらわらと、どこからあんなに湧いて来たんだが」
「街の人間は金もあって、日々楽しくやってるもんだと思ってましたけどね。 案外、僕らの方が自由気ままに、快適にやれてるんですかね」
「それは……時々考えるわ。 俺らにゃ居心地良くても、外から見りゃ掃き溜めだなんだと思ってたが――世の中、何が良くて、何が悪いんだなんか、解りゃしないな」

 そう吐き捨てながら、餃子を突くその姿は、実に当然のことだが、しかし意外なほど、この街に馴染み切り、浸かったただの中年だった。
 それを眺める青年の胸に、言い知れない感情が去来する。 ただ何となく、面白く無いな、と思った。
 かつて青年は、山形に何かしらの輝きを見て、それを羨ましく思った気がしていたが、あれは何かの見間違いだっただろうか。 モヤモヤとしたものを、腹いせに投げつけるように、青年はもう一歩、踏み込んでみる事にする。

「今回の件、株を下げましたね。 環境課は」

 その言葉に、山形の表情は動かない。

「何の話だ?」

 気を悪くするでもなく、驚くでもなく、山形は返す。 それは、そうなるものだ。 今回の暴動は、様々な企業や行政機関に対し、広域かつ多発的に行われた。 その被害を受けた一組織に過ぎない環境課に対して、取り立てて非難するような論調は、世間には無い。 であるのだから、それは一体何の話かと、山形は尋ねて返す、が。

「全くね、僕らも迷惑してますよ。 今まで大人しく潜伏してたバカ達が、ここの所は急に元気になってましてね。 今までいくら騒ぎたくても、忌々しい目の上の瘤が、どうにも邪魔だったけれど――なんだ、案外、奴らも大した事は無いじゃあないか、って」

 割り箸を弄びながら、「解りますよね、何の話か」と、こちらを見ない山形へ向けて言葉を続ける。

「ネットワーク上をいくら漁っても、差し障りの無い映像しか見付けられない辺りは、いつも通り流石だとは思いましたが、山形さんも承知の通り。 僕らみたいなのは、暗がりの中から、ドブ板の隙間から。 覗き見たり、嗅ぎつけるのが得意なんですよ」

 尚も、環境課の一員である山形は、表情も無く、まるで見当の付かない青年の無駄話を、ただ聞き流すべきである――のだが。 山形は同時に、そしてそれ以上に、R-1Nの住人である。 知らぬ風に振る舞う事が、青年の前で大した意味を成さない事を、よく知っている。

「品の無い事を、あんまり自慢げに言うんじゃねえよ。 お前らが何を見て、何を聞いたのかは知らないけどな」

 何を言うも言わないも、分が悪い。 退散だ。 すっかり片付いた皿の横に、空になったジョッキを置き、山形は上着のポケットに手を入れる。 街では持ち歩く人間も少なくなった財布は、R-1Nでは未だ手放せない。

「騒ぐバカをどうこうするのは、組合の通常業務、だろうがよ。 それが多かろうが少なかろうが、こっちに何の謂れもない。 まぁ、管轄外とは言え近くの役所だから、何か必要なら手伝うが」
「ああ、いえいえ。 お構いなく。 ただの嫌味ですから」

 すっぱりと断りの手を立てる青年に、けっ、と山形は再び口の端を曲げる。 店主に代金をさっと手渡し、じゃあなと手をひらつかせて立ち上がる山形に、青年は小石でも投げるつもりで、

「お疲れ様です。 ――良い環境を、でしたっけ」

 振り返る事は無く、歩みも止めず。 去っていく後ろ姿から、呟きが小さく零れ落ちる。

「よく、解らねえよな。 この頃」

 覇気の無い背中に誘われるように、青年も溜息を吐く。

「元気無いよねぇ、山形さん。 疲れてるんだろうなあ」

 具材の焼ける鍋を振りながら、屋台の主人が漏らす。 そうですねぇ、と青年は適当な相槌を返す。

「調子狂いますよね、全く」

 街灯のまばらな道を歩き、山形の姿が闇に消えて行く。 時折、寿命の尽きかけた電球が、力なく瞬いている。 かつて、それを人知れずに直していたのは、いったい誰だったか。 そんな事を考えていた時、店主が差し出す海鮮チャーハンの湯気が、真っ白く思考を塗り潰した。 まぁ、いいか。 全てはさておき、他人事だ。 今は、ようやく待ちに待った食事に集中する事として、青年はレンゲを手に取った。

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