記憶の棺
壁のように高い本棚の隙間を歩いていく。 見上げる先は薄暗く、本棚がどこまで伸びているのか見当が付かない。
場所は、多様な書籍を膨大に抱える、大図書館。 ここには、既に誰が設計したかも忘れられた、書籍の管理システムが生きている。
広大な空間を埋める本棚の一段一段にはレールのようなものが取り付けられ、これに沿って行き交う影がある。
それは、滑るような音と共に現れると、書籍をアームに捉え、滑らかに去っていく。 借用される書籍を運び出し、返却された書籍をあるべき場所へ戻す、端末のロボットだ。
各々の棚には、それらを統括する装置が設備され、そこから伸びたケーブルは、床下のフリーアクセススペースを通り、その全てが1つの部屋を目指して這っている。
山形の眼前、図書館の最奥に辿り着いたこの扉こそ、管理システムの中枢への入り口である。
「お邪魔します」
掛けた声が部屋に反響するも、返事は無い。
闇に機器のランプがちらちらと光るのを横目に、山形は入口付近の壁を手探り、照明のスイッチを探し当てる。
かちり、という音と共に、幾つものラックが所狭しと立ち並ぶ、部屋の風景が明るみになった。
ラックの中身を覗けば、そこには機器がぎっしりと押し込まれ、その1つ1つから、無数の配線が伸びる。 これら機器達が複雑に繋がり合い、1つの管理システムを構成している。
低く駆動音が唸り、パチリと機器の接点が時折に音を立てるのを聞きながら、山形は部屋の奥へ進む。
やがて、部屋の片隅に飾り気の無い机を見付け、そこで立ち止まる。
机の上には、開かれたままのノート、使い込まれた工具類、途中でマーカの途切れたチェックリスト。
ついこの間までの、この部屋の主。 何十年もの間、この管理システムを守り、支えた彼が倒れていたのは、この場所だったと聞いた。
『20年遅えよ、そんなもん』
後継者は作らないんですかと、かつて山形が彼に問うてみた時の返事だった。
既に設計当初の文献も何処かへ行ったこのシステムについて、彼は配線を1つ1つ手繰り、膨大な蓄積を経て、全てを理解していた。
これだけの機器の群体に、数える気も遠くなるほどの配線たち。 その流れを掴む為に20年と言うなら、そこに誇張は無いと思える。
彼が費やした年月の中から、果たしてどのぐらいの事を、このノートや書棚のファイルに遺してくれただろうか。 そんな事を尋ねる機会も無いうちに、彼とは行き違ってしまった。
一体誰に望まれなくて、この部屋に彼の弟子が生まれなかったのかは、山形の知る所ではない。
1つ間違いなく、残念に思えてならないのは、彼の積み上げた代え難い価値が、後に受け継がれる事の無いまま、失われてしまったという事実だ。
『もう、どおでもええ。 今更よ』
吐き捨てるように、笑い飛ばす彼を、かつて見た。 だが、思い返す声には、怒りか、諦めか。 或いは、寂しさのような色があった。
彼の本音はどこにあっただろうか。 何かを変えられる機会を、みすみす逃していなかっただろうか。
彼が手塩に掛けたシステムの管理状態は、一見にしても良く、このまま数十年は無事に稼働して見せる事だろう。 しかしその先、彼の後を追うようにシステムが寿命を迎えた時、取り返しのつかないツケを払う時が来る。
時代に見放されたと言われれば、それまで。 しかし、機器の音色から状態を識り、血管のように張り巡らされた配線を手際良く張り替え、新陳代謝させていく彼の手技には、見惚れるものがあった。
技術を志す後輩であり、時折部材を差し入れては、話を交わす事も多かった山形にとって、そうは埋められない喪失感が、重く胸にあった。
『遺品整理を、頼めませんか』
今に古臭く残る火葬で、彼の煙を空に見送っていたとき、この図書館の受付で見覚えのあった女性アンドロイドに、そう持ち掛けられた。
既に身寄りが無かったらしい彼にとって、最も親しく見えたのが山形、という事らしい。
今や行政の身分でもあり、何より、残された意志を掬い取りたい思いがあり、申し出を引き受け、今に至る。
机上に散らばった紙片を纏め、書棚のファイルを開き、必要のありそうなものを選別して箱に詰める。
持ち帰る先は、環境課庁舎の資料室。 この部屋の資料を保存しておきたいと山形が申し出た事について、課長の理解は速やかだった。
やがて、粗方の作業を終え、山形は机に向き直る。
視線を漂わせる内、机上に並んだ工具の1つ、かつてよく彼が手にしていた、木柄の金槌が目に留まった。
「良いですかね、お借りしても」
道具1つを借り受けて、何かを継いだ気分になるのは、ただの自己満足である。
それでも、この遣る瀬無さを胸に留めておけるよう、形見が欲しかった。
「お代は、これで」
この部屋のゴミ箱によく捨てられていた、安いカップ酒。 その新品を1つ鞄から取り出し、コトリと机に置く。
彼の名前は共同墓地に刻まれたが、魂はこの部屋にある。 そんな気がしている。
さて、と山形は箱の積み上げられた台車を押し、歩き出す。 扉の段差を用心深く台車に越えさせ、再び照明のスイッチを押す。
部屋に闇が戻り、後ろ手に扉を閉じようとして、ふと、届いた音に動きを止める。
振り返れば、蛍のような薄明りの傍ら、パチリ、パチパチと、焚き木が爆ぜるような、乾いた音が響いている。
火継ぎは、もう居ない。
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